豊国神社

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とよくにじんじゃ


画題

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解説

東洋画題綜覧

京都阿弥陀峰の麓にあつて豊臣秀吉を祀る、慶長三年秀吉薨ずるや、これを阿弥陀峰の頂に葬り、社をその麓に建てた、翌年四月には落成し豊国大明神の号を賜ひ、正一位を贈られた、爾来、毎年大中納言を勅使として奉幣のことがあり、秀吉の子、秀頼は一万石を納れて社領と為し、朝廷からは吉田兼見をして社務を総括せしめ、萩原兼従神主となり、神竜院梵舜神宮寺の社僧となつた、社殿宏壮、前後にその比を見ないと称せられ、四月八月の両度の祭礼も極めて盛であつたが、元和元年、豊臣氏が亡びてから、徳川家康はこれを破毀しやうとした、然るに、秀吉の室高台院の哀訴によりて姑くその事は輟んでゐたものの、後、遂にその神号を削り、妙法院中に一碑を建てたばかりで、社殿に修理を加へなかつたので、頽圯に任すことゝなり、元和五年には之を妙法院に付して神官社僧を追ひ、永く祭祀を許さず、明和万治の頃までは尚ほその形跡を存してゐたのであるが、幾もなく全く珉滅に帰してしまつた、然るに明治元年に至り廟祠再興の勅あり、六年別格官幣社に列せられ、三十一年五月にはその墓も修理され、盛大な三百年祭も執行されて今日に至つた。  (国史大辞典)

その盛なりし頃の祭典の模様が、いま屏風となつて遺つてゐるのである。

狩野内膳筆   『豊国祭屏風』(国宝)  豊国神社蔵

伝岩佐勝以筆  『豊国臨時祭屏風』    蜂須賀家旧蔵

筆者不明                 紀州徳川家旧蔵

同                    伊勢徴古館蔵

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)