荘子

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そうし


画題

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解説

画題辞典

荘子、名は周、支那周代の人。蒙国蒙県に生る、嘗つて漆園の吏となる。道流の大学者にして学識該博、天下幾万の書一として窺わざるなし。孔子を詆り老子の説を祖述して更に一家の説を成す。荘子十巻三十篇は即ち其学説を叙述せる書にして、其文比喩に長じ神韻縹渺の趣あり。曽つて楚の国王、荘周が賢を聞き、幣を厚くして之を迎え、許すに相を以てせんとせり、其時周辞して曰く「郊祭の犠牛を見ずや、文繍を衣、芻菽を食す、然れどもその大廟に入る時に当り、孤犢たらざらんとするも得べけんや」と、終身仕えず、遂に仙去す。荘子に荘周自ら夢に胡蝶となることを叙す、日く「昔者荘周夢為胡蝶、栩栩然胡蝶也、自喩適志與、不知周也。俄然覚、則遽遽然周也、不知周之夢為胡蝶與、胡蝶之夢為周與。周與胡蝶、則必有分矣、此之謂物化。」

画家好んで此図を写す。近く末松子爵所蔵に谷文晁筆あり、柴田氏所蔵に柴田是真の筆あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

支那の哲学者、名は周、荘子はその尊称である、蒙に生れて其の漆園の公吏となると『史記』にあるが、蒙は春秋時代には宋に属し、戦国には魏に属しあまり詳かでないので、荘子を以て宋人となすものもあれば、梁の人とするものもある、その生れた時代も明かでないが、『荘子』の中に梁の恵王と談論したことが「則陽篇」に載つてゐるから、孟子と同時代の人であらうが、此の両人互に相会つても居ないやうである、楚の威王が荘子の名を聞いて、之を迎へ宰相となさんとした時、荘周が笑つて『かの郊祭の犠牛を見よ、これを養食すること数歳、衣するに文繍を以てし、以て太廟に入る、此時に当つて孤犢たらんとしてもそれは出来ぬことである』と、その著はす処の『荘子』は八巻三十三篇で、比喩に富み、神韻縹渺、人、これを貴んで『南華真経』といふ。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)