茨木童子の出生

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総合

茨木童子像 高橋 2010年10月29日撮影
茨木童子像裏 高橋 2010年10月29日撮影
茨木童子貌見橋 2010年10月29日撮影

≪摂津説≫

兵庫県尼崎市説

ある百姓の家に男の子が生まれたが、生まれたときから歯が生え、髪も長く成人のようであった。一族は恐ろしく思い、茨木村にこの子を捨てた。捨てられた子は丹後の国千丈ヶ嶽の酒呑童子に拾われ養育され、その配下になり、拾われた地名をとって茨木童子といった。

元禄十四年(1701)に刊行された『摂陽群談』にも、 川辺郡東留松村(現・兵庫県尼崎市東留松)で生まれ、茨木の里(茨木市)に産着のまま捨てられていたところを酒呑童子に拾われ茨木の名をつけて養われたとある。

大阪府茨木市説

茨木童子は水尾村(現・茨木市)の生まれだが、16ヶ月の難産の末に生まれたときにはすでに歯が生え揃い、生まれてすぐに歩き出して、母の顔を見て鋭い目つき笑ったそうだ。父は床屋の前に童子を捨て、子のいなかった床屋夫妻は童子を子として育てた。幼くして体格も力も大人を凌いだ童子を床屋も持て余したが、床屋の仕事を教えた。ところがある日、童子はかみそりで客の顔を傷つけてしまい、あわてて指で血をぬぐったものの、指をきれいにしようと血をなめるとその味が癖になってしまい、以後わざと客の顔を傷つけては血をすするようになった。客は気味悪がって床屋には誰も来なくなった。それによって床屋の主人から怒られた童子は気落ちして、近くの小川の橋にもたれてうつむいていると、水面に写る自分の顔がすっかり鬼になってしまっているのに気づき、人間界で生活することに限界を感じ、大江山に逃げ、やがて酒呑童子と出会い家来となったと言う。その橋は「茨木童子貌見橋(すがたみばし)」と呼ばれていたが現存せず、跡地に碑が立っている。

茨木童子の初出である『御伽草子』の時代に床屋はなかった。床屋という職業が登場するのは江戸時代であり、この伝承は近世以降の語りである。なお、百姓を本業とする床屋の存在も確認できる。

ちなみに茨木という地名の由来は、坂上田村麻呂が生い茂る野茨の木々などを切り倒して田畑を開拓し、人々に集落を作らせたことから「荊切」と呼ぶようになったという説がある。(『茨木童子 鬼と呼ばれた童子を追って』より)

≪越後説≫

新潟県栃尾市説

酒呑童子と同じく越後出身との説。茨木童子は越後国古志郡の山奥の軽井沢(現・新潟県長岡市軽井沢)で茨木善次右衛門の家に生まれた。幼いときから悪行を好み、酒呑童子と共に太平山を住処にし、横行を働いた。酒呑童子の方が奇術に長けていたので、彼らは主従関係を結んだ。その後、さまざまな場所で悪行をし、最終的に大江山に立てこもった。美男子で知られ娘たちから山ほど恋文を送られていた外道丸こと酒呑童子同様、茨木童子も美少年として多くの女性に言い寄られていたという話もある。

この地には酒呑童子と茨木童子が相撲を取った場所があり、茨木童子を祀る祠がある。さらに、この地域では茨木姓がとても多く、その他源頼光の本拠地多田姓、渡辺綱の由来するかと思われる渡辺姓もいる。



≪伝承の違い≫

・尼崎市説では、尼崎で生まれ、茨木市に捨てられ、茨木市で酒呑童子に拾われ、大江山で育てられた。

・茨木市説では、茨木市で生まれ、茨木市で捨てられ、茨木市の床屋に拾われて、自ら大江山に逃げ込み、そして酒呑童子と出会った。

・軽井沢説では、酒呑童子と同じ越後で生まれ、そこで酒呑童子と一緒に過ごし、最終的に京に向かった。美男子だったというエピソードも。




参考文献

『新修茨木市史 第10巻』 茨木市史編さん委員会編 2005年

『茨木童子 鬼と呼ばれた童子を追って 』 大橋忠雄 明石書店 1992年