能因法師

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のういんほうし


画題

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解説

画題辞典

能因法師は平安朝の歌人なり、俗名は橘永愷、歌を藤原長能に學ぶ、剃髪して摂津古曽部に居る、故に人古曽部入道という。

都をば霞と共に立ちしかど秋風ぞふく白河の関

の歌は自ら称して絶唱とする所となり、著に玄々集、歌枕、八十島記等あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

平安朝の歌人、俗名は橘永愷〈ながやす〉といふ、諸兄十世の孫、遠江守忠望の子、永愷文章生となり肥後進士と号し和歌を嗜む、その頃藤原長能また歌を以て世に名あり、永愷就いて和歌を作るの要を問ふ、長能挙げて

山深み落ちてつもれる紅葉ばの乾ける上に時雨ふるなり

の一首を示して曰く、体裁は宜しく此くの如くなるべしと、永愷深く悟り遂に之を師とし学ぶ、後剃髪して名を能因と改め摂津古曽部に居たので世に古曽部入道と称へた、ある時藤原兼房と同乗して二条東洞院に至つたが、遽かに車より降りたので兼房が怪しみ故を問ふと、是れ才女伊勢の旧趾、庭の松なほ残る、礼なくして過ぎられやうかと、行くこと数十歩、樹が見えなくなつて初めて車に乗つた。藤原節信といふ者があつた好事の士、一日能因にあつて大に喜ぶ、すると能因は懐の錦の囊から一片の木を出して此は是れ長柄橋の材である、われこれを愛蔵すること久し、けふ子の為めにこれを出すと、節信欣然としてまた懐中より一枯蛙を出して曰く、是れ井手の蛙であると、相共に愛観して別る、又藤原範国任に伊予に赴く、能因これに従ふ、会々その年大に旱し百姓苦しむ、範国能因に謂て曰ふ我れ聞く和歌の徳は神明をして感ぜしむと、請ふ我が為めに雨を三島の神に祈れと、熊因一首を詠じて進む、曰く

天の河苗代水に堰きくだせ天下ります神ならば神

と、須臾にして雨降ること三日、枯れかゝつた苗悉く蘇つたと、又陸奥に遊んで

都をば霞と共に立ちしかど秋風ぞふく白河の関

と、著書に『玄々集』『八十島記』『歌枕』がある。  (大日本史に拠る)

その伊勢の旧趾を過ぐるの件や、雨乞の歌など好画題として画かる。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)