筑後川合戦

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ちくごがわかっせん


画題

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解説

東洋画題綜覧

筑後川合戦は南朝の忠臣菊池武光が、懐良親王を奉じて筑後川に戦つた有名な合戦で、筑後川は九州第一の大河、その古戦場は今の御井郡味坂村附近であらうといふ。

菊池武光、征西将軍懐良親王を奉じて鎮西にあり、威勢大に振ふ正平十三年(北朝延文四年)十一月兵五千を率ゐ、畠山国久を日向六笠城に討たんとす、会々大友氏時、高崎城に拠りて畔き、宇都宮宏知、肥田正員等亦之に応ず、武光、氏時等の能く為すなきを知り、十四年二月先づ往きて国久の子重隆を三股城に襲うて之を抜く、国久懼れ六笠城を捨て、重隆と共に遁る、武光軍を督して国に帰り、更に阿蘇惟時、少弐頼尚と兵を合して氏時を討たんとし、自ら五千余騎を率ゐて豊後に向ふ、頼尚俄に変心して旗を太宰府に挙げ、惟時亦小国に拠りて其後を遮らんとす、武光即ち師を廻へして惟時を敗り、七月懐良親王を奉じて頼尚を太宰府に襲ふ、頼尚之を聞き、子忠資、姪頼泰等と六万余騎を率ゐ、杜渡を前に当て味坂庄に陣す、武光も亦兵八千に将とし、筑後川を隔てゝ対陣す、十九日手兵五千を提げ、川を渡りて之に迫る、頼尚戦はずして退くこと里余、大原に屯す、武光追撃して大原に到れば、敵已に径路を鑿断し、前に泥沢あり、輒く進むべからず、即ち相峙して戦はざること月余、八月十日の夜半、子武政と精兵七千人を分ちて三隊とし筑後川に沿ひ水声に乗じて進ましめ、また壮士三百人を簡み間道に由りて敵背を掩ひ突喊して乱射せしむ、頼尚の軍兵大に震駭し除伍擾乱、自ら闘撃して死者相枕す、天明の後武政一千余騎を率ゐて先発し、忠資及び稗将四人を斬る、武光の姪武信また殊死して奮闘し頼尚の子頼泰を生擒し、首を獲ること七百余級、而して武信の兵死するもの亦三百に及び、武光は懐良親王と共に三千余騎を率ゐ大呼して頼尚の中堅を突く、飛矢雨のごとし親王身三創を被る、其他戦死するもの頗る多し、武光武政等声を励まして衆を督し将士に先ちて奮力塵戦し遂に頼尚を敗る頼尚敗走して太宰府に退き宝万ケ嶽に拠る、此日戦卯時に始まり酉の時に終る、頼尚の軍死するもの三千二百人、武光の軍死するもの又千八百人に及べり、故に武光は頼尚を追撃せず。兵を率ゐて肥後に帰る。  (国史大辞典)

筑後川合戦を画いたものでは、川辺御楯に大作あり。東京府養正館壁画に小山栄達の作がある。

きくちたけみつ「菊池武光」の項参照。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)