神功皇后

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じんぐうこうごう


画題

画像(Open)

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解説

名は息長足媛尊〈おきながたらしひめ〉。

仲哀天皇の妃で、九州の熊襲の叛を鎮めるため天皇と征西に同行中、天皇が陣没し、皇后は男装して功臣武内宿祢と共に海を渡って、熊襲の支援国新羅を攻め降した。

画題辞典

神功皇后、御諱は息氣長足姫、仲哀天皇の皇后なり、天皇能襲討伐の陣中筑紫に崩じ玉ふ、皇后熊襲の強暴は畢竟新羅の後援にあるを観破し、老臣武内宿弥と議し、天皇の喪を秘し、自ら男装して海を渡りて新羅を征し之を降す、尋いで凱旋の途中筑紫に於て応神天皇を産み、穴門豊浦宮より京に婦り、国内を平定し、天皇を輔けて政を攝する七十年に及ぶ、その英邁の御事跡は万世の仰ぐ所にして、殊に江戸時代に於ては端午の祝いとして皇后の御像と武内宿弥を画きたる幅或は幟等を建つるを習とするに至れり、

筆者不明 神功皇后絵巻二巻は河内誉田神社所蔵にて国宝なり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

神功皇后は、御諱を息気長足姫〈おきながたらしひめ〉といひ、開化天皇五世の御孫、息気長宿祢王の女、成務天皇の三十年御誕生、幼にして聡明、容貌端麗に在した、仲哀天皇の二年立て皇后となり、会々天皇と越前に行幸啓の砌、熊襲反逆の報に接し給うた、それから更に聖駕に従ひ筑紫に赴かせ給うたが、皇后、熊襲反叛には背後に新羅あつて使嗾してゐることを悟り、先づ新羅を討たんと御主唱遊ばされたが、天皇之を用ひ給はず、幾干もなくして天皇陣中に崩御あらせられたので、老臣武内宿祢に謀り喪を発せず、先づ鴨別をして熊襲に当らしめ、御自ら男装して海を渡り、急に新羅を攻む、新羅王戦はずして降る、乃ち大矢田をして其地を守らしめ、凱旋の途次、筑紫に至り皇子御降誕あり、応神天皇とす、尋で群臣を率ひて穴門の豊浦宮に移り、更に海路から京に向はせ給ふ、会々仲哀天皇の庶王子麛坂忍熊の二王、皇后に平かならぬ事があつて、兵を挙げ道に要撃したが、却つて皇后、武内宿祢の為めに亡ぼされ、乱平ぐ、即ち応神天皇を奉じて政を摂すること七十年、御年百にして崩じ給ふ。  (大日本史)

神功皇后の御征韓、その御英邁なる御事跡は世の仰慕の的となり、徳川時代には端午の節句などに御像を飾り以てこれを例とした、皇后を画いた作としては、大阪市、誉田神社に土佐光信筆の『神功皇后縁起絵巻』二巻があり、共に足利義教寄進の奥書があり、今国宝に指定されてゐる。近く帝展第十二回に岩田正巳の作あり。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)