相撲節

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すまいのせち


画題

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解説

東洋画題綜覧

王朝時代、毎年七月、天皇宮庭に於て相撲を覧給ひ群臣に宴を賜うた、これを相撲の節といふ、もと式部省の所管であつたが、清和天皇の貞観十年、兵部省に隷属することゝなつた、それはその主意が武力の鍛錬にあつたからである、醍醐天皇の延喜兵部式の制に七月相撲節に不参の者を懲罰すること、射礼、騎射の節に同じからしむとある、以て此の節を重んぜられたことが知られる、節日は始は七月七日であつた、これは垂仁天皇の七年、此の日を以て野見宿祢、当麻蹴速に命じて相撲せしめたのに因るといふ、淳和天皇の天長三年、改めて十六日とせられたが其後大の月は二十八九日、小の月は二十七八日に定まつた、抑も此の相撲の節のこと史に見えたのは聖武天皇の天平六年七月及び十年七月の条で、桓武天皇の延暦十二年から毎年の恒例となつた、それから多少の延引や停止もあつたが爾来三百年間継続され、鳥羽天皇の保安以後、三十年間廃絶し、後白河天皇の保元三年に至り再興されたものゝ、其の翌年からまた行はれず、其後十四年を経て高倉天皇の承安四年また一度行はれたが、後再興のことなく廃絶してしまつたといふ。  (国史大辞典)

此の相撲節も画いたものでは、古く東寺全勝院の重宝で、鳥羽覚猷筆といふ俗に勝絵巻がそれて、田中訥言の模本も世に伝へられてゐる。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)