白藤源太談

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総合

1807年に発表された、山東京伝著・歌川豊国画による忠孝貞節をテーマとした仇討物語である。
合巻体裁の前後編中本二冊本と黄表紙体裁の前後編中本七冊本とがある。

江戸通油町鶴屋喜右衛門版の述意よると、山東京伝は『白藤源太談』は村歌や田舎人の昔語を基にしていると述べている。著作動機として考えれるのが1804年に市村座で上演された『梅桜松相生曾我』の世話狂言「四紅葉思恋深川」や中村座春狂言『江戸花三升曾我』の二番目「花川戸身替の段」である。このころ、山東京伝は遊里から足を洗い、専ら芝居や小説に興味を寄せていたことからも考えられる。また、「花川戸身替の段」を書いた桜田治助と親しい間柄であったことからも言えるだろう。


・白藤源太と河童が描かれている挿絵
白藤源太と河童が描かれているのは次の場面である。
「こゝに又、白藤が養父、引田源兵衛は、老病にて今年身罷り、一子兵太は、はや六才になりけるが、ある時、兵太を連れ、下総の国に行きて帰るさ、<中略>白藤大いに怒り、船の端に手をかけて陸まで引上げけるにぞ、船頭手を合わせて詫ければ、やう/\許して船を元の如く押出し、兵太を抱乗せ、我も乗りてぞ渡りける。これより白藤が大力、近国までも聞こへけり。
○此時白藤、道にて河童の化けて出たるを掴殺したることありといへども、事繁しければこゝに漏らす。その図は既に口絵に表せり。」
これより、なぜ白藤源太が河童を投げ殺したのか、理由はわからないのである。『白藤源太談』の中で、白藤源太と河童について書かれたのはこの部分と、この挿絵がある口絵のみである。
山東京伝は『白藤源太談』を村歌や田舎人の昔話を基にして書いたと述べていることから、白藤源太が河童を投げ殺したという話を入れようとし、この場面に入れようとした。つまり、河童は白藤源太の力強さを表すために描かれたのではないだろうか。白藤源太と河童の挿絵の説明にも「○白藤源太 大力、量り知るべからず。剣法もつとも通暁す。義気忠心、類すべきなし。つひに主君の讐を復す。」とあることからも、河童は白藤源太の力強さを強調させるためのものであったのではないだろうか。



<参考文献>
水野稔 他編『山東京伝全集 第7巻』ぺりかん社、1999年
鶴岡節雄校注『山東京伝 房総の力士白藤源太談』千秋社、1979年