漢高祖

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かんのこうそ


画題

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解説

画題辞典

漢の高祖皇帝、姓は劉氏、名は邦、字は季、沛の豊邑の人なり。隆準にして龍顔、美髯あり、寛仁にして大度、家事を事とせず、壮とならに及び、泗上亭の長となり。咸陽に繇役して秦皇帝を観、大丈夫当に此の如くならべしと大息せりという。季曽つて秦帝の葬に会し、県の為めに徒を驪山に送る、徒多く道に逃亡す、季豊西に到りて送る所の徒を皆解放し、而して曰く、公等皆去れ、吾れ亦去らんと、然るに徒中の壮士従わんと願うもの十余人あり、季此輩と痛飲して夜澤中を径り、大蛇を斬る。後人の到りて其所に来るに、一老媼哭していう、吾れは是れ白帝の子なり、今赤帝の為めに斬らると、告げて再び見る能わざりしという。白帝の子とは秦の始皇にして赤帝とは季をいうなり、季大に喜びて吉兆となし。遂に兵を沛に起して秦を討つの旗幟を翻し、推されて沛公となり、続いて漢王となり、更に覇を楚王項羽と争い、苦辛惨憺して項羽を滅ぼし、天下を一統して漢国を建つ。狩野派の古画に白蛇を斬るの図あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

漢の高祖、姓は劉氏、名は邦、字は季、沛の豊邑の人、秦の末期に大に秦郡を破りて咸陽に子嬰を降し自ら関中に王たるべきを宣した、偶々楚の項羽これを聞いて快からず、大軍を率ひて鴻門に会し一挙劉邦を撃たんとした、劉邦は張良の策に従ひ項羽に陳謝して一旦はその封を受けたが、韓信を大将とするや、その計によつて項羽を垓下に破り天下を定めて、これから漢の高祖といふ、かくて都を長安に置き人心を安んじ郡県封建の両制度を用ひ大に威を揮つた、嘗て秦帝の葬に会し、県の為めにその徒を驪山に送り、残るものと夜中痛飲し、沢山で不図白蛇の出づるを見、これを斬つたが、後に人、その沢を過ぐると一老媼泣いて曰ふ、自分は白帝の子であるが、今赤帝の為めに斬らると、白帝の子とは即ち始皇を指す、劉邦これを吉兆として兵を起し、秦を討たんとし、推されて沛公となつた。

高祖沛豊邑中陽里人、姓劉氏、字季、父曰太公、母曰劉媼、其先劉媼嘗息大沢之坡、夢与神遇見時、雷電晦冥、太公住視、則見蛟竜於其上已而有身、逐産高祖、高祖為人隆準而竜顔美鬚髯、左股有七十二黒子、仁而愛人、喜施意誥如也、常有大度、不事家人生産作業、及壮試為吏、為泗水亭長、廷中吏無所不狎侮好酒及色云々。  (史記本記)

その白蛇を斬るの図、亦、張良と共に十万の兵を率ひて洛陽に花を見、張良笛を吹くの図、咸陽官の地割を為す図、又、張良を召して衣を与ふる図など、よく画題として択まる。  (後素集)

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)