清涼寺

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せいりょうじ


画題

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解説

画題辞典

清涼寺は山城国葛野郡嵯峨にあり、世に釈迦堂という、本尊は釈迦仏、白栴檀の立像にて、三国伝来と称するものなり、初め嵯峨天皇の離宮なりしを、源融賜はりて山荘となし、棲霞観と称す、後改めて寺となし、棲霞寺という、然るに永延元年、釈奝然愛宕山を支那の五台山に擬し、大清涼寺と号し、入宋の際に得たる白檀釈尊を安置せんとし、果さずして入寂せしを以て、高弟盛算、其志を承け、勅許により棲霞寺内の釈迦堂を一寺とし、清涼寺と号す、其後に至り、棲霞寺に漸次衰頽し、清涼寺代りて興隆し、棲霞寺の旧址を止めざるに至りしものなり、

狩野元信筆釈迦堂縁起六巻あり、国宝となす。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

清涼寺は浄土宗鎮西派の巨刹、山城国葛野郡嵯峨にある、五台山と号す、世に嵯峨の釈迦堂といふ、本尊は釈迦仏、白栴檀の立像で三国伝来といふ、初め嵯峨天皇の離宮であつたが、源融に賜はつて山荘とし棲霞観と呼んだが、後改めて寺とし棲霞寺といふ。永延元年奝然〈てうせん〉法師の弟子、成算、師の命により棲霞寺境内の釈迦堂を一寺として清涼寺の勅許を得たが、のち棲霞寺は漸次衰頽して清涼寺が遂に全部を占むるに至つた。

元慶四年、太上皇(清和)遷自水尾山寺、御嵯峨棲霞館、詔授左大臣源朝臣融家令伴宿祢技雄従五位下、館者左大臣山荘也。  (三代実録)

これが縁起を画いたものに左の作がある。

狩野元信筆  『釈迦堂縁起』六巻(国宝)  同寺蔵

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)