武内宿祢

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たけのうちのすくね


武内宿禰をみよ。

画題

画像(Open)


解説

前賢故実

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孝元天皇の四世孫。武雄心命の子。武内宿祢は、忠勇整粛なる国家の柱石であり、天下の安否を一身に背負い、二百五十余年の間に六代の帝に仕えていた。景行天皇五十一年春、帝が群臣のために数日に続ける宴を賜ったが、皇子の稚足彦尊(成務天皇)および武内宿祢が宴に出席しなかった。その理由について帝が二人に聞くと、二人は「宴楽の日であるため、百官の心が游樂にある。警備を怠ることがあれば、隙を窺っている凶徒が窃かに襲ってきたら、恐ろしいことになる。故に、門下で非常事態に備えている。」と申しあげた。帝は大いに賛嘆しご褒美を下賜し、武内宿祢を国の重要な臣下に任じた。神功皇后が新羅征伐から凱旋したとき、麛阪皇子と忍熊皇子が叛乱を起こした。武内宿祢は皇子(応神天皇)を抱えて、海路で紀伊へ赴き、皇后と合流した。後に、武振熊と共に、軍勢を率いて忍熊皇子等を討ち滅ぼした。薨去した年が不明だが、年齢は大凡三百歳である。

詔を受けて忍熊王征伐から凱旋したとき、菟道に至って歌を詠む。

阿布瀰能瀰(あふみのみ) 勢田乃和多利珥(せたのわたりに) 介豆区苫利(かづくとり) 多那伽瀰須疑氐(たなかみすぎて) 于泥珥等邏倍菟(うぢにとらへつ)

(『前賢故実』)

東洋画題綜覧

武内宿祢は屋主忍男武雄心命の子、母は菟道彦の女影媛で、景行天皇の二十五年命を奉じて東北諸国の形勢民情を巡察し廿七年帰つて奏して曰ふ、東夷に日高見国があり、男女文身し稟姓勇悍、これを蝦夷といふ土地沃壌にして曠闊撃つて取るべきであると、五十一年八月成務天皇立つに及びよく之を輔佐し、次で大臣となる、これが大臣の始めである、後、仲哀天皇熊襲を征し皇軍利あらず、天皇陣中に崩じ給ふや、神功皇后を輔け奉り、喪を秘し私に梓官を奉じて穴門に遷つたが国事多端で歛葬することが出来ず、豊浦宮に殯して帰り、皇后に従つて三韓を征服し、筑紫に凱旋に当り皇后皇子を御誕生、これ応神天皇である、会々先帝の庶王子麛阪忍熊の二王、兵を挙げて皇后の入京を遮る、皇后之を聞召され舟師を帥ひ難波に赴かせ給ひ宿祢をして皇子を奉じ南海に出づることを命じ給うた。即ち宿祢紀伊水門に至つて皇后に謁し辛巳歳三月自ら精兵を率ゐて忍熊王を誅す、応神天皇御即位の後、その七年韓人を督して池を大倭に掘る、これを韓人池といふ、会々その弟甘美内宿祢、天皇に讒して武内宿祢筑紫に拠り三韓と牒合せて事を謀ると、天皇之を信ぜさせ給ひ使を遣して宿祢を殺さうとした、宿祢の臣直根子といふ者身替りとなりて死す、宿祢はその隙に乗じて通れ闕下に馳せて一身の明を立てやうとした、天皇即ち武内兄弟を召し探湯を行はしめた処甘美内宿祢の姦計露はれて免され、政を執ること故の如く景行、成務、仲哀、応神、仁徳の五朝に仕へ官になること二百四十四年といふ。  (大日本史)

武内宿祢はその誠忠と長寿、大臣の嚆矢といふので目出度い画題として、その応神天皇を抱奉るところ、神功皇后と双幅に画かるゝもの極めて多い。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)