智証大師

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ちしょうだいし


画題

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解説

画題辞典

智証大師、名は同珍、延暦寺第五世にして寺門天台の祖なり、姓は和氣氏、讃岐の人、十歳にして漢書を讀み、十五歳にして比叡山に登り義真に師事す、山に居ること十二年仁壽三年入唐し、天台に遊びて石鼓を見る、亦国清寺に物外に學び、瑜珈の密旨を受く、留ること六年、天安二年帰朝し、台宗の密蔵及諸宗の経書千餘巻を朝廷に進む、貞観六年勅を奉じ、仁壽殿に大悲胎蔵の灌頂壇を結び、同十年勅により江州園城寺を伝法灌頂の道場となし、唐土将来の仏像経籍を安置す、即ち寺門天台の祖となる、慈覺寂後天台座主に任じ、寛平七年四月晦日示寂、壽七十八、台山に葬る、智証大師と勅謚せらる。著に法華経骨目、阿字秘釈、止観要訣等あり、

讃岐金倉寺所蔵画像国宝あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

智証大師、名は円珍、姓は和気氏、讃岐国那珂郡の人、父は宅成、母は佐伯氏、弘仁六年を以て生れた、十歳にして『論語』『漢書』『文選』等を読み十五歳にして延暦寺座主義真和尚に師事し大に台密の深義を究めた、廿三歳の時、法相宗の名僧明詮師と仏法の大義を決択し令名朝野に聞ゆ、仁寿三年八月、商船欽良暉の船に投じて入唐し福州開元寺に於て印度那蘭陀寺の般若怚羅三蔵に梵字悉曇章を学び、兼ねて金剛界胎蔵界及び諸の印法を授かる、後、天台山に詣でゝ智者大師の跡を尋ね、長安に入つて青竜寺の法全和尚に謁し、瑜伽三密及灌頂を受けた、かくて留学七年、天安二年に至つて帰朝した、得るところの経巻千余巻、貞観八年奏上して持会壇を冷泉院に建て同十年六月、勅によつて三井園城寺を伝法灌頂道場とし、これを大師に賜はり同時に延暦寺の座主に任ぜられた、寛平二年僧都に陞り三年十月廿九日寿七十八で入寂した、門弟六百余人、智証大師と勅諡せらる。  (仏教辞林)

讃岐金倉寺に大師の画像があり国宝に指定されてゐる。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)