明道先生

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みょうどうせんせい


画題

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解説

画題辞典

明道先生は宋代の學者なり、姓は程、名は顥、字は伯淳、年十五、弟頣と共に周子に學び、嘉祐二年進士に擧げられ、神宗の初年、呂光等の推薦によりて監察御史裏行となり、進説甚だ多し、時に王安石、権を執り、謂ゆる新法を行ふ顥常に従容として其不便を論じ、安石も亦心大に之に愧屈せりといふ、後僉書鎮寧軍節度判官となりしが.幾くなくして官を辞し、弟頃と共に西京に居りて讀書講學し、士太夫従ひ来るもの多し、帝の命に應じ、時政を痛論せることあり、後司馬光の相となるに及び、宋正寺丞を以て召されたるも疾を以て行かず、其茂卒す、年五十五、頣外和にして内剛、克く人を心服す、その學に芯すや講家に泛濫し、老釈に出入する十年、竟に孔孟に歸宿す、著に定性書あり、世に明道先生と稱せらる、寧宗諡して純といひ、理宗の時河南に追封せらる、中山高陽の筆に明道先生(美濃大橋氏所蔵)あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

明道先生は宋代の碩学、姓は程、名は顥、字は伯千渟、年十五にして弟頤と共に周茂叔に学び嘉祐二年進士に挙げられ、神宗の初年呂光等の推薦により監察御史裏行となつた、当時王安石、権を執り所謂薪法を行つたが、明道はいつも従容として之が不便を論じた、後簽書鎮寧軍節度判官となつたが、幾もなく官を辞し弟頤と共に西京に帰り読書講本を専にした、哲宗起つに及び宗正の丞としやうとしたが命至るも果さず、元豊八年歿す、年五十四、明道寛容にして温厚、人に接して春風和気の中にあるが如しと称された、尊称して明道先生と云ふ。

これを画いたものに中山高陽筆『明道先生』がある。(岐阜大橋氏蔵)

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)