新羅三郎義光

提供: ArtWiki
2021年12月7日 (火) 18:40時点におけるWikiSysop (トーク | 投稿記録)による版
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
ナビゲーションに移動 検索に移動

しんらさぶろうよしみつ


画題

画像(Open)


解説

(分類:武者)

画題辞典

新羅三郎義光は源頼信の第三子なり、新羅明神の社前に加冠して新羅三郎と称す。驍勇にして謀あり、左兵衛尉となる、後三年役、兄義家が屡利を失ひしことを聞き、寛治元年官を捨てゝ奥州に赴き之を援く、常陸介甲斐守に歴任し大治二年卒す。義光少にして音律を好み、其奥に逹し、豊原時忠より名笙「はりしまろ」を贈らる、已にして義光奥州に赴かんとするや、時忠之を送り行きしかば、義光其心を察し、戦乱に名器を失ふことあらんを慮り、之を返し与へたりという、之を事実となす、然るに古今著聞集等は義光曽つて笙の秘曲を豊原時元に學びしが、義光の奥州に下らんとせし時に、時元已に死し其子時秋に尚少にして秘曲を父より授かるに及ばざりしを以て此際義光を足柄山まで送り、此山中に於て義光より伝授を受けて帰へると記し、世俗多く之に従ふ、随って義光の事柄を図するものは、皆この足柄山を画くを普通となす。

古く春日光長筆時秋絵詞あり、又京都中村某氏所蔵に住吉廣尚の図あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

源頼義の第三子で、義家の弟、新羅明神の社前で加冠したので新羅三郎といひ、又館三郎と呼ぶ、幼にして弓馬をよくし、音律に秀でてゐた、長じて左兵衛尉となり京師にある中、偶々後三年の役起り、兄義家屡々戦に利を失ふと聞き、之を援けやうとし出陣を請うたが許されず、遂に寛治八年八月官を辞して陸奥に赴き義家と共に清原武衡家衡を亡ぼし、京都に帰り、刑部卿に任じ常陸介、甲斐守に歴任大治二年卒す、を豊原時忠に学び堪能の聞え高かつたが、奥州下向に臨み、時忠より受けた名笙『はしりまろ』を返した、この事を著聞集に次のやうに記し、これが大和絵の好画題となつてゐるのである。

源義光は、豊原時元が弟子なり、時秋いまだ幼かりける時、時元はうせにければ、大食調入調曲をば、時秋には授けず、義光には慥に教へたりけり、陸奥守義家朝巨、永保年中に、武衡家衡を攻めける時、義光は京に候ひて、かの合戦の事を伝へ聞きけり、暇を申して下らむとしけるを、御ゆるしなかりければ、兵衛尉を辞し申して、陣に弦袋をかけて馳せ下りけり、近江国鏡の宿に著く日、花田の単狩衣に青袴きて、引入烏帽子したる男、後れじと馳せ来るあり、あやしう思ひ見れば豊原時秋なりけり、『あれはいかに、何しに来りたるぞ』と問ひければ、とかくの事はいはず、「たゞ御供仕るべし』とばかりぞいひける、義光『この度の下向、物さわがしき事侍りて馳せ下るなり伴ひ給はむ事尤本意なれども、此の度におきては然るべからず』と、しきりに止るを聞かす、強ひて従ひ行きけり、力及ばで諸共に下りて、遂に足柄の山まで来にけり、かの山にて、義光馬を控えていはく、「とどめ申せども用ゐ給はで、これまで伴ひ給へる事その志あさからず、さりながらこの山には、定めて関もきびしくて、たやすく通る事もあらじ、義光は所職を辞し申して都を出でしより、命をなきものになして罷り向へばいかに関厳しくとも憚るまじ、かけ破りて罷り通るべし、それにはその用なし、速に是より帰り給へ』といふを、時秋なほ承引せず、又いふこともなし、その時義光、時秋が思ふ所を悟りて、閑処に打ち寄りて、馬よりおりぬ、人を遠くのけて、柴を切り払ひて楯二枚を敷きて、一枚に我身坐し、一枚には時秋をすゑけり、靫より一紙の文書を取り出でて、時秋に見せけり『『父時元が自筆に書きたる大食調入調由の譜、又笙はありや』と時秋に問ひければ、『候ふ』とて、懐より取り出したりける用意のほど、先づいみじくぞ侍りける、その時、『是まで慕ひ来れる志、定めてこの料にてぞ侍らむとて、即ち入調曲を授けてけり、『義光はかゝる大事によりて下れば、身の安否知りがたし、万が一安穏ならば、都の見参を期すべし、貴殿は豊原数代の楽工、朝家要須の仁なり、我に志をおぼさば、速に帰洛して道を全うせらるべし』と再三いひければ理に折れてぞのぼりける。  (古今著聞集巻六)

これを画けるものゝ中、重なもの二三を挙ぐ。

小堀鞆音筆  『足柄山』  田口広市氏蔵

川辺御楯筆         宮田氏旧蔵

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)