慈恩大師

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じおんだいし


画題

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解説

画題辞典

慈恩大師、名は窺基、唐代の人にして法相の高僧なり、京兆長安に生る、俗姓は尉遅、字は洪道、貞観二十二年歳十七にして出家して玄奘法師の弟子となり、研讚を積む、二十三歳、勅によりて大僧となり、高宗建立の慈恩寺に住す、後玄奘と共に訳経に従事す、玄奘最も窺基を信任す。顕慶四年唯識論訳出の際、神昉、嘉尚、普光三師と説を異にするや、玄奘三師を出して獨り師を留めたりという。後五台山に遊び又太行に登り、永淳元年十一月慈恩寺に寂す、壽五十一、世に慈恩大師となす、又大乗基或は霊基と尊称す。その教宗を慈恩教といい、その判別せるものに慈恩八宗あり、成唯識論述記以下著作亦少しとせず。

大和薬師寺及興福寺所蔵に慈恩大師像あり、共に国宝なり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

慈恩大師は法相宗の祖、名は窺基、字は洪道、俗姓は尉遅氏、支那長安の人である、始め玄弉三蔵、途上に窺基を見、その眉目清秀にして挙措逼らざるに感じ、之を度して弟子に加へたなら法門の為め必らず為す所があらうと之を勧めた、因つて貞観二十二年、十七にして玄弉の弟子となり研鑽を積み、二十三歳にして大僧となり、高宗建立の慈恩寺に住し、後、玄弉に従つて経本の訳に従事し先づ大小乗経三十本を訳し玄弉の信任最も深く、顕慶四年、唯識論訳出の際、神昉、嘉尚、普光の三師と共に之に従つたが、三師と其説を異にし、各その主唱を抂げず、玄弉は、遂に三師を退けて窺基一人に之を訳出せしめたといふ、高宗の永淳元年十月十三日慈恩寺の翻経寺に寂す、年五十一。

大和薬師寺及興福寺に大師の画像があり、共に国宝に指定されてゐる。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)