小栗判官

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総合

日本国語大辞典によれば伝説上の人物で、常陸国の城主であったと伝えられている。

「日本伝奇伝説大辞典」によると説教浄瑠璃に登場したのが始まりであり、その内容は以下の通りである。  鞍馬の毘沙門天の申し子として生まれた小栗は次々迎えられる姫君をことごとく嫌い、美女と現じたみぞろが池の大蛇と契った。しかしその噂が京中に広まり、父三条大納言兼家の怒りに触れて、常陸の国に追放される。

 そこで武蔵・相模の郡代横山殿の娘照手姫の美しさを聞いた小栗は恋文で照手姫の心を動かし、強引に婿に入る。それが横山の怒りに触れる。横山は小栗を人喰い馬の餌食にしようとするが、小栗はそれを見事乗りこなす。  しかしその後家来とともに毒殺されてしまう。

 照手姫も相模川に沈められそうになるが助けられる。しかしその後売り飛ばされて美濃の国にまで行き、夫に定説を尽くして遊女づとめを断り、下水仕として青墓の万屋で労役につく。  

 一方黄泉の国で小栗は家臣たちの忠誠心に感動した閻魔大王の計らいで藤沢上人の下に蘇生する。しかしその姿は餓鬼阿弥であり、胸には熊野本宮のお湯に入れよという閻魔大王直筆の札があった。そのため小栗は土車に乗せられ、熊野へ向かう。 道中で照手姫の働く青墓の万屋に着き、照手姫は夫の供養にと五日間の暇を貰い大津関寺まで引いていった。    その後熊野のお湯で見事もとの姿に戻った小栗は父三条大納言に息子として認められ、参内して畿内五カ国と美濃を賜り、照手姫と再会した。

 以降影響作には近松門左衛門「当流小栗判官」、「小栗判官車街道」がある。これらの作品の中には赤穂浪士の世界観を模して、小栗判官が浅野長矩になぞらえられている作品(「忠臣金短冊」)もあるが、小栗の死と蘇生という大筋は変わらない。

 東海道五十三次ものとしては相模国のモチーフとして多く扱われている。これは話の有名さだけではない。「東海道名所図会を読む」によれば、東海道名所図会には小栗堂などの遺跡があり、彼らのものと伝えられる古銭が残っていたと述べられている。このような点から相模の名物とされていたと考えられる。よって「東海道五十三対 藤沢」でもこの話が使われている。  

 翻刻は参考HPのまま、以下の通りである。 ”小栗小次郎は鎌倉権現堂にて 強盗横山の家にとまり 毒酒にてすてに殺さるべきを 照手が貞操にて其場を忍びいで 鬼かげといふ荒馬にのつて藤沢寺へ駈入 急難遁れける されどもその毒気にあたり 終にかきやみとなつて熊野本宮にいたる 照手百千の苦をしのびて車につきそひこれを引行 熊野権現の利生によつて本復なし かたき横山をうちとり 照手をともなひ本国へかへり家をおこし美名をかがやかす”    これは「東海道名所図会」との藤沢項と比較すると、強盗横山の計略で危うく殺されそうになるところを、恋人に助けられる部分は共通している。上の部分で言うところの”急難遁れける”までである。以降は小栗の代わりに家人が亡くなり、

 熊野本宮の利生によって蘇生すると述べられているので大きく異なっている。    後段は元文三年初演の浄瑠璃「小栗判官車街道」での小栗蘇生の場面の影響を受けていると考えられる。この文章と同様、照手が自ら熊野の湯まで小栗を引いてゆき、敵横山三郎に襲われるところを救われる場面である。小栗物自体が人気があったため、これ以降も影響作などが演じられていた。よってこの場面も広く認知されていたと考えられる。  この場面は後段の文章と同時に、本編の浮世絵ともほとんど一致していると考えられる。



参考文献

『竹本座浄瑠璃集 三巻』原道生 校訂代表 国書研究会 1996年

『日本伝奇伝説大事典』 乾克己ほか編 角川書店 1986年

『日本説話伝説大事典』志村有弘, 諏訪春雄編 勉誠出版 2000年

『東海道名所図会を読む』粕谷宏紀著 東京堂出版 1997年

『東海道名所図絵』秋里籬島 人物往来社1967年

『菅専助全集』第3巻 土田衛ほか編 勉誠社 1993年

参考HP

http://homepage2.nifty.com/ICHIYUSAI/53tsui/1to11/1to11.htm 閲覧 2009年2月4日

日本国語大辞典online 閲覧 2009年2月4日おぐりはんがん


画題

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解説

(分類:戯曲)・武者