大雅堂

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たいがどう


画題

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解説

東洋画題綜覧

大雅堂、姓は池野、名は無名、初めは勤、字は貸成、秋平といひ、霞樵、九霞山樵、竹居、鳧滸釣叟、三岳道者などの号がある。京の人で幼時から書を能くした、長じて紀州に赴き祇園南海に画を学ぶ。南海、淸の蕭尺木の画譜を貽つて、画を学ばせ当に文人学士の画を学べと、大雅大に感じてこれを模したといふ。また大和に赴き柳里恭に就き設色の法を学び土佐光芳から画法を学んだ。時に京に望月玉蟾あり大雅之と約して従来我国の画家は漢法を学ばず、大に之を主唱せんと乃ち倪雲林の画法を模し或は伊孚九に倣ひ山水人物花鳥皆その奥旨を究めた。又唐宋の古法帖を学んでその妙所を得、兼ねて和歌をも善くした、性恬淡にして貧賎に安んじ暇あれば妻玉瀾と三絃を鼓し古曲を歌つて楽み、又、旅行を好み、殊に名山を跋踄することを唯一の楽として各地の名山を跋踄登攀し富士山だけでも五回に及び、悉くその登路を異にしたといふ。その作るところの『富士百図』は全く先人未踏の境地であつた。又、白山、立山にも登る、これより三岳道人と号した。安永五年四月十三日京都に歿した。年五十四、その若くして柳里恭を慕ひ、軒先に眠つて謁を求めたり、扇面画を鬻いで売れず悉くこれを瀬田橋に投じたりした逸事よく知られてゐる。

池大雅を描けるもの、下村観山にその作があり、帝展十二回には矢野橋村が之を画き出品し第十七回院展には大田聴雨の作がある。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)