大塔宮

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だいとうのみや


画題

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解説

(分類:武者)

画題辞典

大塔宮とは、皇族にして天台座主となれるものゝ称なり、叡山の大塔に坐はするが故なり、曽つて護良親王大塔宮たりしより、世に同親王の尊称の如くなりたり、護良親王は後醍醐天皇の第三の皇子なり、天皇が北条氏を滅ぼして大権を朝家に恢復せんと企て給ふや、親王その謀に参じ、先づ近畿大寺の僧徒をその与党となさんとし、嘉暦元年梨木門跡となり、やがて二年三月、天台座主に補せらる、尊雲法親王とは称し給ふ、四月座主を辞し、専ら密謀に参画せしか、元弘元年謀洩れて、天皇笠置に幸するや、親王僧兵を率ひて、王子に陣し、六波羅の兵を郤けしが、やがて遁れて南都の般若寺に忍ぶ、会々敵兵の迫り来りけるに及び大般若の唐櫃の中に忍びて、辛くも免れしというは此時のことなり、続いて主従十人、柿の法衣に笈をかけ、山伏修験に身を変じ、和歌吹上より長汀曲浦を伝へて熊野に入り更に去つて深く十津河を分け入る、高峯の雲に枕を欹て、苔の莚に袖を敷き、道程三十里、具さに艱苦の限りを尽くさるとなり、かくて其の地の土豪に拠り徐ろに再挙の企をなせしが、已にして異心を狭むものあるを知りて復去つて潜に吉野に赴く、茲に僧兵を招致し寺を以て城となし之を守る、明年大兵の来攻に会して城陥る、村上彦四郎義光が親王に代りて戦死せるはこの時のことなり、已にして建武中興の大業成り、親王征夷大将軍となり兵部卿に任ず、就いて足利尊氏と相反目し、其の讒に遭うて捕へられ、鎌倉二階堂ケ谷の東光寺に幽せらる、世に土窟に幽せられたりと伝ふるはこの事なり、建武二年七月足利直義の臣淵辺義博の弑す所となる、年二十八なり、般若寺の危急、十津川行旅、吉野旗場、鎌倉の最後、皆画かるる所なり、

土佐光起、菊地容斎、其他の画あり。

土佐千代女筆大塔宮図(下条桂谷氏旧蔵)

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

大塔宮といふのは、元来皇族の御身を以て天台の座主となられた方のことを言ふのであるが、一般にね護良親王を称し奉る。護良親王は後醍醐天皇の第三皇子、初め延暦寺の大塔に居られたのであるが還俗せられて護良親王といふ。天皇北条氏の横暴不遜を憤らせ給ひ之を討たんと図り給ふ。親王またこれに参与せられたが、先づ近畿諸大寺の僧徒を引いて味方となす必要を感じ、嘉暦元年九月梶井殿即ち梨本門跡とならせ給ひ、天台座主に補せられ山門衆徒の心を収攬されたが元徳元年四月職を辞し還俗され、二年、延暦寺の大講堂を勅命によつて修理し、天皇これに親臨せらるゝや又親王を以て新堂呪願師となし給うた。併し四月にはまたこれを辞して専ら北条氏討伐の密謀を画策された。処が元弘元年謀は漏れて、天皇は近臣数人を従へさせられ笠置山に幸し藤原師賢は天皇の御衣を着して延暦寺の西塔に向つた。僧徒は師賢を以て天皇と信じ、続々西塔に集つたので、親王は御弟尊澄法親王と共に別に僧兵を率ゐて八王子に陣した、翌日六波羅の兵が攻めて来たので之と戦ひ敗つたが、此時僧徒、師賢であることを知り漸次四散してしまつたので、親王は遁れて楠木正成の赤坂城に入り、尋でまた城を出で大和の十津川から吉野、熊野、高野のあたりに出没して機を狙ひ、二年遂に吉野の大衆を語らひ愛染宝塔に城を構へて之に拠り、密使を諸国に派して勤王の兵を挙げた、北条高時大に驚き二階堂貞藤に命じて吉野を攻めしめ、親王よく戦つたが利あらずして高野山に入り、機を覗ふ中、天皇船上山に幸し官軍大に奮ふ。親王此の時河内の信貴山に上り毘沙門堂にあつたが赤松則村京師を攻めて戦不利と聞き僧兵を送つて則村を援けた。会々新田義貞高時を斃し、足利尊氏等京都を復したので、天皇は京都へ還幸あらせられ、親王亦入洛して親しく天顔を拝し征夷大将軍となり、兵部卿となり給うた。処が准后新待賢門、親王の勢力旺にして、その出である成良親王の太子たるを廃せられんことを怖れ、私に讒を構へ尊氏又親王を怖れて劃策する処があつたので、親王は建武元年捕へられて常磐井殿に幽せられ翌月鎌倉に送られた。足利直義親王を鎌倉二階堂ケ谷の東光寺に幽閉した処、其時高時の子時行兵を挙げたので直義之と戦つたが利あらず、西奔するに臨み、遂に淵辺義博をして親王を弑し奉つた。親王時に御年二十八、後鎌倉宮を建てゝ親王を祀る。  (大日本史、梅松論)

護良親王の御事跡はまた『太平記』にも精しく、その『熊野落』の条は洽く人口に膾炙せられてゐる。

     大塔宮熊野落の事

大塔宮二品親王は、笠置の城の安否を聞召れんために暫く南都の般若寺に忍びて御座ありけるが、笠置の城已に落ちて、主上囚はれさせ給ひぬと聞えしかば、虎の尾を履むおそれ御身の上に迫りて、天地雖広御身を可被蔵所なし日月雖明長夜に迷へる心地して、昼は野原の草に隠れて露に臥鶉の床に御涙を争ひ夜は孤村の辻に彳みて人を尤むる里の犬に御心を悩され、何処とても御心安かるべき所なかりければ、かくても暫しはと思召されける処に、一乗院の候人按察法眼好専、如何して聞きたりけん、五百余騎を率して未明に般若寺へぞ寄せたりける。折節官に附き奉りたる人、一人もなかりければ、一防ぎふせぎて落させ給ふべきやうもなかりける上、透間もなく兵既に寺内に打入りたれば、紛れて御出あるべき方もなし、さらばよし自害せんと思召して既に推膚脱がせ給ひたりけるが、事叶はざらん期に臨みて腹を切らんことはいと安かるべし、若しやと隠れて見ばやと思召し返して仏殿の方を御覧ずるに人の読みかけて置きたる大般若の唐櫃三あり、二の櫃は未蓋を開けず、一の櫃は御経を半過ぎ取出して蓋をもせざりけり、此蓋をあけたる櫃の中へ御身を縮めて伏させ給ひ、其上に御経を引かづきて隠形の呪を御心の中に唱へてぞ座しける。若し捜し被出は、頓て突立てんと思召して氷の如くなる刀を抜きて御腹に指し当て兵ここにこそといはんずる一言を待せ給ひける、御心の中推量るも尚浅かるべし。去程に兵仏殿に乱入りて仏殿の下、天井の上までも無残所捜しけるが、余に求めかねて、是体の物こそ怪しけれ、あの大般若の櫃を開き見よとて蓋したる櫃二を開きて御経を取出し底を翻して見けれどもおはせず、蓋開けたる櫃は見るまでもなしとて、兵皆寺中を出去りぬ、宮は不思議の御命を続せ給ひ、夢に道行く心地して猶櫃の中に座しけるが、若し又兵立ちかへり委しく捜す事もやあらんずらんと御思案ありて、頓て前の兵の捜し見たりつる櫃に入替らせ給ひてぞ座しける、案の如く兵共又仏殿に立ちかへり、前の蓋の開けたるを見ざりつるが覚束なしとて御経を皆打移して見けるが、から/\と打笑ひて、大般若の櫃の中を能々捜したれば大塔宮はいらせ給はで、大唐の玄弉三蔵こそ座しけれと戯れければ、兵皆一同に笑ひて門外へぞ出でにける。是偏に摩利支天の冥応、又は十六善神の擁護に依る命なりと、信心肝に銘じ感涙御袖を潤せり。斯ては南都辺の御隠家も叶難ければ、則ち般若寺を御出ありて、熊野の方へぞ落させ給ひける、御供の衆には光林房玄尊、赤松律師則祐、木寺相模、岡本三河房、武蔵房、村上彦四郎、片岡八郎、矢田彦七、平賀三郎彼此以上九人なり。宮を始奉りて御供の者までも皆、柿の衣に笈を掛け、頭巾眉半に責め、其中に年長ぜるを先達に作り立て、田舎山伏の熊野参詣する体にぞ見せたりける。此君元より竜楼鳳闕の内に長らせ給ひて、華軒香車の外を出させ給はぬ御事なれば御歩行の長途は、定めて叶はせ給はじと、御伴の人々かねて心苦しく思ひけるに案に相違して、いつ習はせ給ひたる御事ならねども怪しげなる単皮脚巾草鞋を召して少しも草臥たる御気色もなく、社々の奉幣、宿々の御勤懈らせ給はざりければ、路次に行き逢ひける道者も勤修を積める先達も見尤むる事なかりけり。

由良の湊を見渡せば澳漕ぐ船の梶をたへ、浦の浜ゆふ幾重とも、知らぬ浪路に鳴く千鳥、紀伊路の遠山渺々と、藤代の松にかゝれる磯の浪、和歌吹上を外に見て、月に瑩ける玉津島、光も今はさらでだに、長汀曲浦の旅の路、心を砕く習なるに、雨を含める孤村の樹、夕を送る遠寺の鐘、哀を催す時しもあれ、切目の王子に着き給ふ。其夜は叢祠の露に御袖をかたしきて、通夜祈り申させ給ひければ、南無帰命頂礼三所権現満山護法、十万の眷属、八万の金剛童子、垂跡和光の月明に分段同居の闇を照し逆臣忽に亡びて朝廷再び耀く事を得せしめ給へ、伝へ承る両所権現は是伊弉諾伊弉冊の創作なり、我君共苗裔として、今朝日忽に浮雲のために隠されて冥闇たり、豈不傷哉、玄監似空、神若し神たらば君蓋為君、と、五体を地に投げて一心に誠を致してぞ祈り申させ給ひける丹誠無二の御勤、感応などかあらざらんと、神慮も勝に計られたり。終夜の礼拝に御窮屈ありければ、御肱を曲げて枕として、暫く御目睡ありける御夢に、髪結ひおる童子一人来て、熊野三山の間は尚も人の心不和にして大儀成り難し、是より十津河の方へ御渡り候ひて、時の至らんを御待候へかし、両所権現より案内者を附け進らせられて候へば、御道指南可仕候と申すと御覧ぜられ、御夢は則ち覚めにけり是権現の御告なりけりと、憑敷思召されければ未明に御悦の奉幣を捧げ、頓て十津河を尋てぞ分入らせ給ける。其道の程三十余里が間には絶えて里人もなかりければ、或は高峰の雲を枕に欹て苔の莚に袖を敷き、或は岩漏る水に渇を忍びて朽ちたる橋に肝を消す山路本より雨なくして、空翠常に衣を湿す、向上ぐれば万仞の青壁刀に削り、直下せば千丈の碧潭藍に染めり、数日の間斯る険難を経させ給へば、御身も草臥はてゝ汗水の如し、御足は欠け損じて草鞋血に捺れり、御伴の人々も皆其身鉄石にあらざれば、皆々飢ゑ疲れてはか/゙\しくも歩み得ざりけれども、御腰を推し御手を挽きて路の程十三日に十津河へぞ着かせ給ひける。  (太平記巻五)

大塔宮の御事跡の中、此の般若寺の御危難、山伏姿の熊野落、鎌倉土牢の御最期など皆歴史画としてよく画かる。

土佐千代筆  『大塔宮出陣』  長谷川亀楽氏蔵

磯田長秋筆           第一回帝展出品

服部有恒筆           第九回帝展出品

都路華香筆           京都十念寺蔵

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)