堀河夜討

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ほりかわようち


画題

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解説

画題辞典

源義経の平家討伐の後、兄頼朝の意に忤ふことあり、頼朝土佐坊昌俊を京都に遣はし、之を図らしむ、時に義紅六条堀河館に在り、昌俊を召す、昌俊奈良七大寺参詣の途京を過るのみ他意あらすと陳じ、誓書を作る、而してその夜六十四騎を以て急に義経が堀河第を襲ふ、會々帳下皆出遊して在らず、左右在るもの僅に七騎、義経妾静に命して門を開かしめ、自ら甲冑を装ひ、突出奮戦す、己にして帳下歸り来るものあり、土佐坊遂に敗れ、鞍馬に匿れ、尋いて捕へらる、義維之を免さんとす、昌俊罵詈已まず竟に斬らる、物語に於ては此間に強力弁慶を點綴し、排慶の強勇に對し昌俊を卑怯者とすれども、實は昌俊勇猛の悪僧にして、義経も為めに人其主者の為めにする宜しく此の如くなるべしと稱揚せしほどのものなり、謡曲の「正尊」は此ことを叙したるものなり、東京帝室博物館に住吉如慶筆の堀河夜討絵巻あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

源義経平家を亡ぼし大功を立てたが、頼朝讒を信じて義経を憎み、土佐坊昌俊をして京都堀河なる義経の館を襲ひ却つて義経の為めに討たる、これより頼朝愈々義経を討たんと図る、(「源義経」の項参照)『源平盛衰記』の一節に曰く。

土佐坊昌俊並児玉党等六十余騎、十七日子刻に伊予守義経の六条堀川宿所に押寄て時の声を発す、館内には不慮事なれば義経を始として纔七騎ぞ有ける伊予守時の声を聞き、さればこそ起請法師が所為也、但其僧は尤〈おそろし〉からず、何事が有べきとて、ちとも不騒、禅者〈しづか〉をばあなどるまじき事也とて冑を取て打懸け、灸治し乱て労の折節成けれ共、鎧小具足取附て、縁の際に立出て、門を開と下知す、舎人馬を待儲たり、義経馬に乗て蒐出、今日近来、日本国に誰かは義経を思懸くべき況昌俊法師をや、あますな者共とて、豎横散々に蒐ければ木葉を嵐の吹様に、さと左右へぞ散たりける、伊予守引退て指詰々々射ければあだ矢なし、寄手も矢前を汰〈そろ〉へて射けり、源八兵衛尉広綱は内甲を鉢附の板に射附られて馬より落て死にけり、熊井太郎は膝節いさせて死生不定也、義経敵の中に懸入て、あますな射取れと下知しける上、郎等共此彼より馳集りければ昌俊が軍敗て河原を指て逃去る、行家此事を聞馳来ければ、夜討の党類弥々四方に敗散る、昌俊は川原を上に落けるを、其僧あますな若党とて義経は暁天に院御所へ馳参ず、甲の上に矢多く折懸たり、胡籙には矢纔に三筋ぞ残たりける。(下略)

堀河夜討の名作左の通り。

菊池容斎筆  (重要美術品)    浅草寺蔵

同                 古殿家旧蔵

狩野安信筆  絵詞(予楽院詞書)  因州池田侯爵旧蔵

住吉如慶筆             東京帝室博物館蔵

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)