劉備

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りうび


画題

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解説

画題辞典

劉備、字は玄徳、支那三国蜀漢第一の皇帝なり、漢の疏族景帝の子中山王の後に出づ、少きより関羽張飛と結びて兄弟となり、漢室の復興を謀る、初め徐州に拠りしが戦利あらず、曹操に歸し又哀紹に拠り、更に劉表に走り、遂に諸葛孔明、龐士元の二名士を帷幄に得るに及びて,茲に益州割拠の策を立て、呉の孫権と連合して曹操に捷ち、遂に巴蜀漢中に入りて自立して漢中王となり、更に蜀昭烈帝となる、蜀魏呉三国鼎立茲に成る、是れより三国互に相攻めて寧日なし、晩年呉と荊城の地を争つて戦ひ、関羽先づ歿し、次いで帝白帝城に敗れ、同地に崩ず、年六十三.或は桃園三雄と題して関羽張飛との諦盟を図し、或は草蘆三顧と称して諸葛孔明を草蘆に三顧すの図に画家の好題目たり、単に劉備の像を画けるもの亦少しとせず、

中山高陽の筆(高橋男爵旧蔵)

にあり、

白川楽翁筆(澁澤男爵所蔵)

あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

支那三国蜀の盟主蜀漢烈皇帝といふ、字は玄徳、河東の関羽、涿県の張飛を両翼とし、後、琅琊の諸葛亮孔明を参謀として漢中に王となり曹丕が漢祚を奪つたと聞き弔合戦を起し武瞻の南に於て自ら帝位に即き、年号を章武と改め国を漢と号し呉の孫権、魏の三曹等と中原の鹿を争つたが半途にして崩じた。関羽張飛と共に桃園三傑と称して画かるゝもの多い。

玄徳、姓劉、諱備、字玄徳、涿郡涿県人、漢景帝子、中山靖王勝之後也、勝子貞、元狩六年封涿県陸城亭侯坐耐金、失侯家焉。  (三国誌)

これを画けるもの

土佐光芳筆  『劉備関羽張飛』  池田侯爵家旧蔵

山田敬中筆  『桃園三傑』    第三回文展出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)