前九年合戦

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ぜんくねんかっせん


画題

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解説

画題辞典

前九年合戦は、天喜四年より康平六年に至る前後九年の久しきに亙りての奥州の戦乱なり、初め陸奥の豪族阿部頼時累世其地に住し膽澤以下六郡を有して威権あり、衣川の険を擁して頻りに附辺を脅かす、源頼義陸奥守鎮守府将軍として、その子義家義綱等を随へて下国し、其強暴を制し一時小康を得たりしが、頼義任満ちて将に帰らんとする時に当り、頼時の子貞任兇暴を行ひ、頼時亦遂に衣川に拠りて反す、朝廷頼義を重任し勅して之を討たしむ、是に於て頼義大に坂東の兵を発し、又歩騎を国内に徴して之を討す、年を踰えて頼時敗死せるも、貞任尚強悍にして屈せず、善戦して勢盛んなり、頼義之と川崎の柵に戦つて大敗し人馬凍餒す、朝廷因つて更に新に源齊順を出羽守に任じ頼義を援けしむ、而も齊順遷延して発せず、諸国の兵粮亦来らず、頼義困頓、貞任益々劫略を縦まゝにす、康平五年頼義復任満ちて帰らんとせしも、軍士頼義を慕ひ、新に任に就ける高階経重に従わず、経重京に帰り、頼義遂に出羽の豪族清原光頼武則の援を得、先づ小松柵に貞任の弟宗任を破り、更に衣川柵を抜き鳥海柵を屠り貞任を誅す、之を前九年役の梗概とす、

東京帝室博物館に、鎌倉時代の筆に成る前九年合戦絵巻残闕あり、河内誉田神社にも同本ありと伝ふ。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

平安朝の末葉に源頼義が陸奥の豪族安倍氏を討伐した戦で十二年を要したのであるが、俗に後三年役に対して前九年役と呼ぶ、始め安倍頼時威を近辺に奮つて侵略を事とし遂に胆沢、和賀、江刺、稗抜、志波、岩手の六郡を略し、衣川の険に拠つて朝廷に賦貢を上らず、代々の国司之を制することが出来なかつた、後冷泉天皇の永承中国司藤原登任奥羽の兵を率ゐて鬼切部に戦つたが敗れて多くの死者を出した、此事朝廷に聞えたので、廷議源頼義を陸奥守兼鎮守府将に任じ之を討たしめた、頼義即ち子の義家、義綱を具して陸奥に下つたが会々大赦があつて其罪を免じた、頼時大に喜び帰伏したため極めて平静であつた、処が頼義の任期も満ち、なほ数日の間鎮守府に留り府務を行はんとしたので、頼時は慇懃に之に従ひ多くの駿馬や金銀を献じた、頼義やがて国府に帰らうと阿久利川に宿つた夜、何者か藤原光貞の営を犯して人馬を殺傷した、探つて見ると頼時の子の貞任の所為と知れた、頼義大に怒て貞任を捕へ之を罪せんとしたので、頼時直ちに子弟同族を集め衣川に拠つて叛旗を翻した、天喜四年七月、朝廷頼義に命じて之を討たしめた、頼義即ち坂東の兵を発して之を討つ、頼時の女婿藤原経清、平永衡も亦頼義に帰した、処が或る人永衡に二心ありと告げたので頼義怒て永衡を斬つた事から経清は心平かならず部下を率ゐて頼時の陣に奔つた、頼義は此処に於て気仙郡司金為時をして頼時を衣川に攻めしめた頼時奮戦して屡々之を撃退した、此時俘囚長安倍富忠が亦官軍に応じた、頼時は驚き之を翻意せしめやうと、親ら之に赴いたが富忠は鳥海山の険に拠て迎へ撃ち頼時は矢に中つて鳥海に死す、天喜五年七月の事であつた、頼時死するや子貞任父に代つて軍を督し、其弟宗任之を輔け勢ひ大に奮ふ、頼義屡々苦戦に陥り、或は饑饉にあつて将卒離散し、或は軍糧欠乏して戦ひ意の如くならず、その中に康平五年となり頼義の任終り朝廷高階経重を以て之に代らせたが、士卒経重の指揮を受けず頼義に服してゐるので、経重は手の出しやうもなく引揚げた、开でまた頼義が鋭意賊を討伐することゝなり、同年九月貞任と磐井川に戦ひ、貞任退いて衣川関に拠つたので頼義親ら兵を率ゐて之を攻め、或は民家を壊ち塹壕を填め草を刈り河岸に積み馬を下つて遥に皇城を拝し八幡宮に祈り、自ら火を取つて之に投じた、此時俄に暴風起り猛火天に沖し、楼櫓塁柵悉く灰燼となり、柵中大混乱に陥つた処を官軍急追し遂に貞任を刺す、貞任の弟重任子千代童藤原経清等皆誅に伏し宗任は降り乱全く平ぎた、朝廷頼義の功を賞して伊予守とし、義家以下皆官を拝した。

此の合戦を画いたものが前九年合戦絵巻で筆者は未詳だが宅磨為行と云ひ、或は土佐光弘、又は飛騨守惟久と云ふ。全部で六巻あり、帝室博物館の蔵である。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)