保元物語

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ほうげんものがたり


画題

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解説

画題辞典

保元物語は保元の乱を記るしたる仮名文の戦記なり。三巻あり。保元の乱は後白河天皇の保元元年鳥羽法皇の崩御に乗じ、兼ねて不平なりし崇徳上皇が、宇治悪左府頼長と共に兵を挙げたりし一条にして、平忠正、源為義及その子鎮西八郎為朝等召に應じて之に属し、源義朝平清盛勅命を奉じて之が討伐に当り、遂に崇徳上皇の根拠なる白河殿を破り、上皇は逃れて薙髪し、頼長は流矢に中りて薨じ、為義斬られ為朝大島に流さるゝことによりて結末せるなり。上皇は後讃岐に遷され給ふ。図するもの少からず。

住吉慶恩筆保元物語絵詞(松平子爵所蔵)

俵屋宗達筆保元平治物語屏風(東京帝室博物館所蔵)

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

保元の乱の顛末を叙した三巻の物語で、葉室大納言時長の筆と伝へられる。第一巻では後白河院の御即位に筆を起して争乱の原因を説き、二巻に入つて義朝が白河殿夜討から合戦の経過結末を記し、第三巻にかけて敗将の最期を細叙し元暦元年四月十五日崇徳院の廟を造営し遷宮を行ふに及んでゐる、一篇の主人公は藤原頼長と源為義で、殊に鎮西八郎為朝の武勇を叙するに力を尽してゐる、その一節を引く。

爰に佐渡兵衛重貞と云ふ者、宣旨を蒙りて国中を尋求めける処に、或者申しけるは、此程此湯屋に居る者こそ怪しを人なれ、大男の怖ろしげなるが、さすがに尋常気なり、歳は二十ばかりなるが、額に疵あり、由々しく人に忍ぶと覚えたりと語れば、九月二日湯屋に下りたる時三十余騎にて押寄せてけり、為朝真裸にて合木を以て数多の者をば打伏せたれども、大勢に取籠められて云ひがひなく搦められにけり、季実判官請取りて二条を西へ渡す、白き水干袴に赤き帷子を着せ、髻に白櫛をぞ指たりける、北の陣にて叡覧あり、公卿殿上人は申すに及ばず、見物の者市をなしけり、面の疵は合戦の日、正清に射られたりとぞ聞えける、既に誅せらるべかりしが、以前の事は合戦の時節なれば力なし、事既に違期せり、未だ御覧ぜられぬ者の体なり、且は末代に有り難き勇士なり、暫く命を助けて遠流せらるべしと議定ありしかば、流罪に定りぬ、但し息災にては後悪しかりなんとて肘を抜きて伊豆の大島へ流されけり。  (保元物語第三)

保元物語を画いた作。

俵屋宗達筆  『保元平治物語屏風』     東京帝室博物館蔵

住吉慶恩筆  『保元物語絵詞』       松平子爵家蔵

筆者未詳   『保元平治合戦図』(重美)  長尾欽弥氏蔵

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)