三浦安針

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みうらあんじん


画題

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解説

東洋画題綜覧

徳川家康の外事顧問、本名をウヰリアム、アダムスといふ、英国の生れで慶長五年三十七歳の時、東印度会社の遠征隊としてリフデ号に組込み我が豊後の一港に到着した、長時間の航海で二十四人の乗組員中起ち得るもの僅かに六人、豊後侯の庇護を受けてゐる中、家康之を聴いて謁見し掠奪にあつたリフデ号に五千両を与へ賠償した上江戸に伴つてその外事顧問とした、その間家康の命に依つて洋風の船舶を建造すること二隻、その一は百二十噸で江戸大阪間の航海に充てられた、これより家康の寵遇益々加はり江戸の人馬込勘解由の女で天主教を信ずる一女を娶り、ジヨセフ、スサンナの二子を挙げ日本橋附近に居を卜した、安針町の名これに依つて起る。又、相模国横須賀附近逸見村に二百五十石の領地を賜ひ、こゝで荘園を開いたので三浦安針の名が起つた、後、江戸を去り肥前平戸に住み、日蘭交易の為め尽すところあつたが家康薨去後、鎖国令発せられてその圧迫愈々厳しくなつたので、これを憂ひ、遂に健康を害して平戸に病臥する身となり、我が元和六年五月十六日客死した、時に年五十七、その墓域は安針塚として、今も尚三浦郡逸見村に遺つてゐる。

平田清筆  『三浦安針』  第十一回帝展出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)