求塚

提供: ArtWiki
2021年12月7日 (火) 19:05時点におけるWikiSysop (トーク | 投稿記録)による版
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
ナビゲーションに移動 検索に移動

もとめづか


画題

画像(Open)


解説

東洋画題綜覧

求塚、一に求女塚に作り、処女塚に作る、摂津国武庫郡にあつて、万葉集第九巻の葦屋処女墓とあるのがそれである、小竹田男と血沼の大夫と二人の男に想はれ遂に生田川に身を投ずるといふこと、『大和物語』にも『昔処女あり、競ふ男二人ありけるを、身になげきて生田川に死せるよし』云々とある、万葉集には『葦屋処女の墓を過る時』の長歌九巻にある。

古の益良壮士の、相競ひ、妻問しけむ、葦屋の、莵原処女〈うなひをとめ〉の、奥津城を、吾が立ち見れば、永き世の、語にしつゝ、後の人の、偲にせむと、玉桙の、道の辺近く、磐構へ、作れる冡を、天雲の、退部〈そきへ〉の限、この道を、行く人毎に、行き寄りて、い立ち嘆かひ、或人は、啼〈ね〉にも哭きつゝ、語り継ぎ、偲び継ぎ来し、処女らが、奥津城どころ、吾さへに、見れば悲しも、古思へば

     反歌

いにしへの小竹田壮士の妻問ひし莵原処女の奥津城ぞこれ

謡曲に『求塚』がある、清次の作で、『大和物語』と『万葉集』とを骨子としたもので、諸国一見の僧が、津の国の生田の里に若菜摘む里の少女に逢ひ求塚の由来を聞き、後段に地獄の苦患を見せた、前シテは里の女、ツレニ人同、後シテ莵名日処女、ワキ僧である。

「さらば語つて聞かせ申し候ふべし、昔此所に莵名日処女の有りしに、又其頃小竹田男、血沼の大丈夫と申しゝ者、彼うなひに心を懸け、同じ日の同じ時に、わりなき思ひの玉章を贈る、彼女思ふやう、一人に靡かば一人の恨み深かるべしと、左右なう靡く事もなかりしが、あの生田川の水鳥をさへ、二人の矢先の諸共に、一の翅に中りしかば、其時妾思ふやう、無慙やなさしも契りは深みどり、水鳥までも我故に、さこそ名〈いのち〉は鴛鴦の、番去りにしあはれさよ、住みわびつ我身捨ててん津の国の、生田の川は名のみなりけりと、「是を最後の言葉にて、此川波に沈みしを、取り上げて此塚の、土中に籠めをさめしに、二人の男は此塚に求め来りつゝ何時まで生田川、流るゝ水に夕汐の、さしちがへて空しくなれば、それさへ我が科になる身を助け給へとて、塚の内に入りにけり、塚の内にぞ入りにける。  (謡曲求塚)

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)