宇治橋の戦

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うじばしのたたかい


画題

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解説

東洋画題綜覧

治承四年四月、源頼政以仁王を奉じて平家を亡ぼさんと図り延暦興福の僧徒の援を請ひ軍を進めんとする中、謀洩れて平家の追ふ処となり、南都に落ちんとして平等院に憩ふ、平家の軍大挙してこれを攻む、頼政の軍、宇治橋の橋板を撤して防戦努めたが利あらず、頼政は流矢膝に当つて兼綱仲綱二子と共に戦死し、以仁王は南都に落ちやうとして亦流矢に中り薨じ給ふ、その宇治橋の戦ひ世に『橋合戦』と称し『平家物語』や『盛衰記』に名高い、『平家物語』の一節を引く。

去程に、宮は宇治と寺との間にて六度迄御落馬有けり、是は去ぬる夜御寝成ざりし故也とて宇治橋三間引きはづし、平等院に入奉て暫御休息有けり、六波羅には『すはや宮こそ南都へ落させ給ふなれ、追懸て討奉れ』とて、大将軍には左兵衛督知盛、頭中将重衡、薩摩守忠教、侍大将には上総守忠清、其子上総太郎判官忠綱、飛騨太郎判官景高、高橋判官長綱、河内判官秀国、武蔵三郎左衛門有国、越中次郎兵衛盛継、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清を先として、都合其勢二万八千騎、木幡山打越て宇治橋の詰にぞ押寄たる、敵、平等院にと見てんければ、鬨を作る事三箇度、宮の御方にも同う鬨の声をぞ合せたる、先陣が『橋を引たぞ過すな』とどよみけれ共、後陣は是を聞つけず、我先にと進程に先陣二百余騎押流され、水に溺れて流けり、橋の両方の詰に打立て矢合す。

宮の御方には大矢俊長、五智院但馬、渡辺省授、続源太が射ける矢ぞ、鎧もかけず楯も不堪通けり、源三位入道は、長絹の鎧直垂に、品皮威の鎧也、其日を最後とや被思けん、態と甲は著給はず、嫡子伊豆守仲綱は赤地の錦の直垂に、黒糸絨の鎧也、弓を強う引んとて是も甲は著ざりけり、爰に五智院但馬、大長刀の鞘を外て、唯一人橋の上にぞ進んだる、平家の方には是を見て『あれ射取や者共』とて究竟の弓の上手共が矢先を汰〈そろ〉へて差詰引詰散々に射る、但馬少しも不噪、揚る矢をばつひ潜り下る矢をば跳り越え向つて来をば長刀で切て落す、敵も御方も見物す、夫れよりしてこそ矢切但馬とは被云けり。

堂衆の中に、筒井浄妙明秀は、褐の直垂に、黒革絨の鎧着て五枚甲の緒をしめ、黒漆の太刀を帯き、二十四差たる黒ほろの矢負ひ塗籠籐の弓に、好む白柄の大長刀取副て橋の上にぞ進んだる、大音声を揚て、『日来は音にも聞くらん、今は目にも見給へ、三井寺には其隠れ無し、堂衆の中に筒井浄妙明秀とて一人当千の兵ぞや、我と思はん人々は寄合や、見参せん』とて二十四差たる矢を差詰散々に射る、矢庭に十二人射殺して十一人手負せたれば箙に一つぞ残りたる、弓かばからと投捨て、箙も解て捨てけり、つらぬき脱で跣に成り橋の行桁をさら/\と走渡る、人は恐れて渡らぬ共、浄妙房が心地には一条一条の大路とこそ振舞たれ、長刀にて向ふ敵五人薙ふせ六人当る敵に逢て長刀中より打折て捨てけり、其後太刀を抜て戦ふに、敵は大勢なり、蜘蛛手、角縄十文字、蜻蛉返り、水車、八方不透切たりけり、矢庭に八人切ふせ九人に当る敵が甲の鉢に余に強う打当て目貫元よりちやうと折れ、くつと抜て河へざぶつと入にけり、憑む所は腰刀、偏へに死んとぞ狂ける。(下略)  (平家物語第四)

此の橋合戦を画いたものに左の作がある。

小堀鞆音筆  『宇治橋合戦之図』  第四回内国勧業博覧会出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)