源頼義

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みなもとよりよし


画題

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解説

(分類:武者)

画題辞典

源頼義は鎮守府将軍頼信の子なり、少名は王代丸、沈毅にして武略多く、将帥の器あり、騎射を善くす、長元年中父に従つて平忠常の乱を平げ、坂束将士に意を屬せらる、尋いで相模守となり任に赴く、士を愛し施を好み威風大に行はる、坂束弓馬の士皆門に集る、永承中陸奥の土豪安倍頼時勢を恃みて驕傲、屢々官府のものを掠むるものあるや、頼義特に命を受けて陸奥守兼鎮守府将軍を拝し之を討ず、頼時一度歸服せしも頼義の任期満つるに及び、復衣川に拠つて叛く、頼義重任し坂東の兵を以て之を討ず、年を踰てて頼時を誅す、其子貞仕強悍善く戦ひ最も頼義に抗す、兵結んで解けざる数年、漸く貞任を誅し其弟宗任を捕へて歸京ず、實に前後九年にして、世に前九年の役といふもの是なり、頼義正四位に叙し伊豫守となり、承保二年剃髪し尋いで卒す、久隅守景の筆に頼義を画けるものあり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

前賢故実

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(『前賢故実』)

東洋画題綜覧

鎮守府将軍頼信の長子、幼名王代丸といひ沈毅にして武略多く将帥の器あり、騎射を善くす、長元年中.不忠常を討つて功あり、小一条院別当となる、奥州の安倍頼時驕傲にして伏せざるや、頼義命を奉じて陸奥に赴いたが会々大赦があつたので、頼義大に喜び心を傾けて説得したので頼時も之に服し、頼義の京に帰らんとするや厚く之に贐した、然るに頼義の軍、阿久利川に宿するや藤原光貞の営を犯すものがある、頼義大に怒り、之我に反くものであると探索するとそれは頼時の子貞任であつた、頼義之を罪せんとしたので頼時は遂に一族を集めて反するに至つた、頼義再び軍を整へて頼時を討ち、頼時遂に敗死したが、その子貞任宗任よく戦ひ、屡々頼義の軍を悩ました、かくて戦を交ること数年、貞任遂に誅に伏し宗任は降つて乱は平ぐ、朝廷その功を賞して正四位下に叙し、伊予守に任ぜられた。  (大日本史)

頼義少時から絵を好み戯れに中門の壁に不動を描いたこと人口に膾炙され、又、石清水八幡を尊崇し、その奥州征討に当り水に窮するや、遥かに八幡を伏拝み弓を以て傍の岩を除くや忽ち清水湧き出で、軍の渇を救つた俗説また広く行はる。

これを描いた作左の通り

狩野栄川筆  因州池田家旧蔵

久隅守景筆  所蔵者不明

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)