吉野太夫

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よしのたいふ


画題

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解説

画題辞典

吉野太夫は寛永年中京都島原にありし名妓なり、實名は徳子、源氏名は浮舟といひしが、甞つて廓内の櫻花の爛熳たるを見て、こゝにさへ嘸な古野は花盛かりと詠みなるより、人皆吉野大夫と呼ぶに至り、遂に通稱となるといふ、華奢風流全盛比ひなく、和歌に巧に書を善くし、茶事の嗜深し、客と献酬するに蟹の形せるものを作り、之により盃を往来せしむ、世に吉野が蟹の盃とて知らる、東山高臺寺には吉野好みの茶席あり、又洛北鷹ヶ峰常照寺の日乾上人に帰依し、同寺の為めに喜拾する所少なからずその寄進に依る丹塗の本門は、今に存して太夫門の名世に聞ゆ、幽𨗉閑寂一鳥不啼底の鷹峰の風光と、風流多能の美妓とその對照妙ありといふべし、吉野後に上京の豪商炭屋三郎兵衛(後紹益風流才人)と契り、購はれて其の妻となる、然るに始め三郎兵衛の父紹由之を憤り、三郎兵衛を追ひしが、其の後紹由一日墓参の途驟雨に遇うて、計らずもその子夫婦の仮寓を過り、吉野亦之を夫の父と知らずして遇ぜるに、その禮容度に叶ふものありしより、紹由去つて光悦に之を話り、光悦その紹益の婦吉野なるを説くに及び、紹由始めて大に驚き、遂にその子を許せりといふ、是れ有名なる談柄なり、寛永八年八月吉野歳三十一を以て病みて歿す、紹益痛恨限りなく詠じて曰く、都をば花なき里になしてけリ吉野を死出の山に移して吉野亦後世画家の筆によりて屢々画かるゝ所なりとす。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

京都島原の遊女で実の名は徳子、父はもと西国の武士で松田某といふ、元和年中漂浪して京都に来り扇折を業としてゐた、幾何もなく両親共に世を去つたので吉野は島原に身を沈め浮舟と呼んでゐたが、嘗て廓の桜の咲き乱れたのを見て『ここにさへ嘸な吉野は花盛り』と詠じたのでこれから人が吉野と呼ぶやうになつた。和歌に巧みに管絃をよくし豪商灰屋紹益の為めに請出されて其妻となつた、紹益の父紹由怒つて紹益を勘当したので紹益は京の片隅にさゝやかな小家を購ひこれに住み、曽て某侯から賜つた定家の山中の色紙など售つて暮してゐた、一日紹由驟雨に遇ひ此の家に雨やどりした、吉野これを知らず請じて慇懃に茶を侑めた、体容度に合ひ人品もよく手前も美事なので驚きこれを交友の本阿弥光悦に語つた、光悦の曰くその婦人こそ令息の新室である請ふ令息を免せと、遂に許されて晴て夫婦となつた。幾何もなく吉野病の為めに死す年三十一、紹益詠じて曰く

都をば花なき里になしにけり吉野を死出の山に移して

と、吉野まだ廓にあつた時、その名は遠く支那にまで伝へられてゐたので、呉興の李湘山といふ人、『夢見吉野』と題して

日本曽聞芳野名、夢中髣髴覚猶驚、情容未見恨無極、空向海東数鳳行。

と賦したと、寛永四年丁卯のことである。

吉野は斯く美人の代表的の人物だけに浮世絵に画かるゝものあり、諸家の筆にする処少くない、近く上村松園にも其作がある。      

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)