北条時宗

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ほうじょうときむね


画題

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解説

画題辞典

北条時宗、相撲太郎と稱す、北条氏八代の執椎にして時頼の子なり、為人英道にして剛毅、曾つて其執権たるの初に於て、元国高麗によりて書を我に送り、交を通ぜんことを求め來りしも、その無禮を尤めて之を却く、爾來再三の使者悉く之を却け、或ほ之を斬りて国威の在る所を示す、弘安四年遂に元大擧して來りしも、之を太宰府に禦ぎてその軍を殲す、同七年年二十四を以て卒す、時宗亦深く禪を信じ、仏光国師に歸依し、鎌倉に円覚寺を創む、円覚寺に葬る、その画像肥後満願寺に蔵す、玉成會展覧會には今村紫紅の画く所なり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

前賢故実

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(『前賢故実』)

東洋画題綜覧

北条氏八代の執権、幼名を正寿と呼び、相模太郎と曰ふ、時頼の子、弘長元年左馬権頭となり従五位下に叙し、文永元年連署となり二年従五位下に進み、但馬権守を兼ね尋で相模守となつた、三年将軍宗尊親王の近習等時宗を殺さうと謀つたが事露はれ、時宗は北条政村と議し親王を廃して京都に還し其子惟康親王を将軍に擁立した、五年左馬権頭を兼ぬ、これより先、父時頼の薙髪するや時宗なほ幼弱であつたので、北条長時、政村相継で執権を摂したが、時宗長じて執権となる、会々元の国高麗によつて書を献じ、使を通ぜんことを求めたが書辞無礼なので之を郤けた、すると八年また元の使趙良粥来朝し、元に朝貢せんことを求めた、時宗また報せず、十一年の冬元の兵、西国に来襲したが西国の兵よく戦つて之を郤けた処、建治元年に至り又々元の使者杜世忠なるもの来り、長門の室津に上陸したので、時宗命じて之を鎌倉に送らしめ、悉く由比ケ浜に斬り、一方北条実政をして筑紫の探題とし、軍務を司らしめ西国の将士に命じて辺海の防備に努め、予め元兵の来襲に備へた、弘安四年、元果して大挙して大宰府を侵した、時宗宇都宮貞綱をして中国の兵に将として之を防がしめた、未だ到らざるに先ち、神風俄かに発り、怒涛天に沖して献船悉く覆没した、これに将に時宗の胆斗の如く果断機宜に適したるの為すところ、弘安七年卒す、年三十七、鎌倉円覚寺に葬られた。  (大日本史に拠る)

北条時宗の画像は、肥後満願寺蔵があり、史料編纂所の蒐集するところとなつてゐる、薙髪して曲禄に倚る、なほ近代では玉成会に今村紫紅の作あり、菊池契月、岩田正巳にもその作がある。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)