伴大納言

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ばんだいなごん


画題

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解説

東洋画題綜覧

伴大納言、正しくは伴大納言善男といふ、清和天皇の御宇、信の左大臣を陥入れやうと応天門を焼いたが、舎人の口から悪事が洩れて流罪となる、物語は『三代実録』にもあれば『宇治拾遺物語』に精しい。全文を引く。

今は昔、水尾の帝の御時に応天門焼けぬ、人のつけたるになんありける、それを伴善男といふ大納言、これは信の左大臣の所為なりと朝廷に申しければ、その大臣を罪せんとせさせ給ひけるに、忠仁公、世の政は御弟の西三条の右大臣に譲りて白川に籠居給ヘる時にて、この事を聞き驚き給ひて、御烏帽子直垂ながら移の馬に乗り給ひて、乗りながら北の陣までおはして、御前に参り給ひてこの事申す、人の讒言にも侍らん、大事になさせ給ふ事いと異様の事なり、かゝることは返す/\よく糺して実事虚事顕はして行はせ給ふべきなりと奏し給ひければ、誠にもと思召して糾させ給ふに、一定もなき事なれば、免し給ふよし仰せよとある宣旨承りてぞ、大臣は帰り給ひける、左の大臣は過したる事もなきに、かゝる横ざまの罪に当るを思し歎きて、白の装束して庭に荒薦を敷きて出でて、天道に訴へ申し給ひけるに、ゆるし給ふ御使に、頭中将、馬に乗りながら馳せまうでければ、いそぎ罪せらるゝ使ぞと心得て、一家泣きのゝしるに、免し給ふよし仰せかけて帰りぬれば、又喜び泣きおびたゞしかりけり、免されたびたれど、朝延に仕う奉りては、横ざまの罪出で来ぬべかりけりといひて、ことにもとのやうに宮仕もし給はざりけり、此事は過ぎにし秋の頃、右兵衛の舎人なる者、東の七条に住みけるが、府に参りて夜更けて家にかへるとて、応天門の前を通りけるに、人のけはひしてさゞめく、廊の腋に隠れ立ちて見れば、柱よりかかぐりおるゝ者あり、あやしくて見れば伴大納言なり、次に子なる人おる、又次に雑色豊清といふ者おる、何業しておるゝにかあらんと、つゆ心も得で見るに、この三人おりはつるまゝに走ることかぎりなし、南の朱雀門ざまに走りていぬれば、この舎人も家ざまに行くほどに、二条堀河のほど行くに大内の方に火ありとて大路のゝしる、見かへり見れば、内裏のかたと見ゆ、走りかへりたれば応天門の半分ばかり燃えたるなりけり、このありつる人どもは、この火つくるとて上りたりけるなりと心得てあれども、人の極めたる大事なれば、あへて口より外に出さず、その後左の大臣のし給へる事とて、罪蒙り給ふべしと言ひ罵る、あはれしたる人のあるものを、いみじきことかなと思へど、言ひ出すべきことならねば、いとほしと思ひありくに、おとゞ免されぬと聞けば、罪なきことは、終にのがるゝものなりけりとなん思ひける。かくて九月ばかりになりぬ、かゝるほどに伴大納言の出納の家の幼き子と、舎人が小童と諍論をして泣き罵れば、出でてとりさへんとするに、この出納同じく出でて見るに寄りてひき放ちて、我子をば家に入れて、この舎人が子の髪を取りて、うち伏せて死ぬばかり踏む。舎人思ふやう、我子も人の子も共に童いさかひなり、たゞさてはあらで、我子をしもかくなさけなく踏むは、いとあしき事なりと腹だたしうてまうとはいかでなさけなく幼き者をかくはするぞと問へば、出納いふやうおれは何事いふぞ、舎人だつるおればかりのおほやけ人を、我打ちたらんに何事のあるべきぞ、我君大納言殿のおはしませば、いみじきあやまちしたりとも、何事の出で来べきぞ、痴事いふ乞児かなといふに、舎人大きに腹立ちて、おれは何事いふぞ、我主の大納言をがうけに思ふか、おのが主は我口によりて人にてもおはするは知らぬか、わが口あけておのが主は人にてはありなんやといひければ、出納は腹立ちさして、家にはひ入りにけり。この諍論を見るとて、里隣の人市をなして聞きければいかにいふ事にかあらんと思ひて、或は妻子に語り、或は次々語り散らして言ひ騒ぎければ世にひろごりて、朝廷まで聞召して、舎人を召して問はれければ、初めにあらがひけれども、我も罪蒙りぬべくといひければ、ありの件の事を申してけり、その後大納言も問はれなどして事顕れての後なん流されける、応天門を焼きて、信の大臣におほせて、かの大臣を罪させて、一の大納言なれば大臣にならんと構へけることの、かへりて我身罪せられけん如何にくやしかりけん。

この事件を扱つたものが酒井伯爵家蔵伝光長筆『伴大納言絵詞』三巻である。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)