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	<title>ArcUP4691 - 版の履歴</title>
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		<id>https://www.arc.ritsumei.ac.jp/artwiki/index.php?title=ArcUP4691&amp;diff=62852142&amp;oldid=prev</id>
		<title>2025年5月7日 (水) 00:00にWikiSysopによる</title>
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		<updated>2025-05-07T00:00:04Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;=総合=&lt;br /&gt;
== &amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;「東海道五十三次　京　玉藻之前」「東海道五十三次　大尾　三浦之助」&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039; ==&lt;br /&gt;
画題：「東海道五十三次　京　玉藻之前」「東海道五十三次　大尾　三浦之助」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:ArcUP4691.jpg|thumb]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
絵師：三代目豊国&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
版型：大判/錦絵&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
落款印章：豊国画（年玉砕）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
改印：巳三&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
配役：玉藻之前…五代目市川海老蔵、三浦之助…三代目嵐璃寛&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上演年月日：安政四年三月&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上演場所：江戸（見立）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 題材 ===&lt;br /&gt;
&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;・玉藻前御園公服&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文政４年７月１７日より江戸河原崎座上演の夏狂言で、南北６７歳の作。天竺・中国・日本と三国伝来の妖狐伝説を題材にして、ケレン物を得意とした三世菊五郎に、本水・早変わり、宙乗りなどの舞台技巧を存分に応用し、その特色を思うまま発揮させようとした作である。&lt;br /&gt;
南北は勝俵蔵時代の文化４年に早変わりの名人といわれた初世尾上松助のために『三国妖婦伝』を書き、『天竺徳兵衛韓噺』に次ぐ大当たりを得た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:006-0338.jpg|thumb]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文政４年７月、江戸河原崎座で上演された『[[玉藻前御園公服]]』で三代目尾上菊五郎が演じた舞台は玉藻之前役の菊五郎の派手な宙乗りが見せ場の一つで大好評であった。天保４年５月に再演され、その時の菊五郎も「大詰金毛九尾白面の狐となり中乗り、土間より黄なるのろせ薬のけふりの中にかくるゝ所奇々妙々」と、妖狐の宙乗りが評価された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『玉藻前御園公服』は他に『玉藻前尾花錦絵』という名であったり、人形浄瑠璃では『[[玉藻前曦袂]]』であったりと様々な名前や作品になっている。&lt;br /&gt;
人形浄瑠璃の『玉藻前曦袂』も簡単に説明する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;・玉藻前曦袂&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
寛延四年正月大阪豊竹座が初演の人形浄瑠璃『玉藻前曦袂』が始まりであった。これは謡曲『[[殺生石]]』や紀海音の浄瑠璃『殺生石』などを基盤に脚色された作品で、鳥羽院の兄薄雲皇子の反逆事件を絡ませ、玉藻之前を狐ではなく人間として設定している点が独特であった。また、同じ月に京の都万太夫座で初世中山新九郎らによって歌舞伎化もされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに大幅な改訂を施した作品が文化３年３月大阪御霊境内芝居初演の『絵本増補玉藻前曦袂』である。文化１年から刊行されていた読本『絵本三国妖婦伝』の人気に刺激を受け、新しく大幅な改訂を施した。天竺、唐土、日本を舞台として妖狐が数々の悪行を尽くすというスケールの大きな構想を繰り広げたもの。著名な故事や伝承を多彩に活用した波瀾に満ちた物語の展開と、スペクタクル性に富んだ華やかな演出とが好まれてしばしば通しでも上演されてきた。これを最初に歌舞伎化した作品が文化８年７月江戸市村座に出された『玉藻前尾花錦絵』である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
出典：藤野義雄『南北名作事典』桜楓社、平成5年6月&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
出典：横山泰子『江戸歌舞伎の怪談と化け物』講談社、2008年9月&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
出典：服部幸雄『歌舞伎事典』平凡社、1983年11月&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== あらすじ ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昔、天竺では千人の王の首を取ったという班足太子（『三国伝記』）の塚の神、唐土では周の幽王の后褒姒、または殷の紂王の妲己となって国を滅ぼした（『十訓抄』）妖狐が日本に渡来する。北面の武士坂部行綱の息女藻女は、和歌の才によって宮中に召され鳥羽院の寵を得て、神泉苑水神祭に身体から光明を発したことによって玉藻之前の名を賜る。そして帝が御脳の原因を玉藻之前の怪異によるものだと占った陰陽師安部康成がこれ調伏したので、玉藻之前は正体を現し、下野国那須野の原に飛び去った。勅命を受けた三浦之助、上総介はまず試みに犬を射てみせた。これが犬追物の始まりとなった。妖狐はついに両人に射殺されたが、その執念は触れる者に災いをおよぼす殺生石として残り、人々を悩ませた。後に曹洞宗の僧、玄翁和尚が通りかかり、杖で一打ちすると、二つに割れて中から石の霊が現れ、成仏して消え、祟りを止めたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
出典：乾克己他『日本伝奇伝説大事典』角川書店、昭和61年10月&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 登場人物 ===&lt;br /&gt;
&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;玉藻之前&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
金毛九尾の狐が美女に化け、天竺や中国で王を迷わせて追い払われたのち、日本に飛来。花陽夫人改め玉藻之前の名で鳥羽院の寵愛を受けるが、陰陽師安部泰親の祈祷によって調伏せられ、狐の姿になって那須野の原へ飛び去る。&lt;br /&gt;
室町時代以降、広く知られた殺生石伝説の主人公。『玉藻前物語』や『玉藻の草子』など、物語や絵巻、謡曲などに取り上げられた。享和から文化にかけ、読本『絵本三国妖婦伝』『絵本玉藻譚』が相次いで書かれ、その影響は歌舞伎界にも及んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;三浦之助&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
京方の武将。院の勅命を受け、上総介と共に那須野へ向かい、玉藻之前を射殺する。後に「犬追物」の元となる、逃げる犬を射る訓練を行った。「殺さないでくれ」という玉藻之前の懇願を無視して射殺したため、子孫の代まで玉藻之前に恨まれることとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
出典：古井戸秀夫『歌舞伎登場人物事典』白水社、2006年5月&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 配役 ===&lt;br /&gt;
&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;玉藻之前・・・五代目市川海老蔵&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;　寛政３年～安政６年　享年６９歳&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:500-2334.jpg|thumb]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
五代目団十郎（のちの白猿）の次女で江戸堺町芝居茶屋和泉屋勘十郎の養女すみを母として、和倉同心長谷川某を父として生まれる。幼名市川小玉と名乗り、祖父市川鰕蔵の元で修業していたが、叔父の６代目団十郎の門人市川新之助と改め、４歳の寛政６年８月江戸桐座『神霊矢口渡』に子役として新田徳寿丸役に勤め、８代目森田勘弥の由良兵庫之助に介抱されて出て初舞台を踏む。安政元年閏７月大阪中の芝居『児雷也』に眼八・仙素道人の２役。長男の八代目団十郎が８月６日謎の自殺を遂げたため、京板松山高岳院一心寺に葬る。安政２年６月名古屋宮芝居に松本幸四郎と名乗って勤め、京に上り１１月南側芝居『薄雪』に団九郎と伊賀守の２役。安政３年には海老蔵となり、４年１０月堺新地北芝居に白猿と名乗って勤め、再び海老蔵となり宮島の芝居に勤める。安政５年京の舞台に勤めた後７年ぶりに江戸にもどって、７月市村座『絵本太平記』に光秀・将監・鉄ヶ岳の３役、この時の評価は前代未聞の《稀人大極大上々吉》に置かれる。安政６年正月中村座『正札附根元草摺』に曽我五郎役、しかし老年にて出来が悪く病気となり、３月同座『妹背山婦女庭訓』に大判事と入鹿の２役に勤める予定であったが、病いが悪化して死去。伝来のお家芸を本領とし、時代物・世話物いずれにも適し、実悪・色悪・老役なども演じ、特に荒事・武道事を得意とした。また、多種多芸の人で文筆を好み俳句・狂歌にも名があり、著書は５０以上の作品が見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;三浦之助・・・三代目嵐璃寛&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;　文化９年～文久３年４月２１日　享年５２歳&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:500-3706.jpg|thumb]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
旅役者生島岩五郎の子。初め父と共に旅芝居に勤める。のち尾上多見蔵の門人となり尾上和三郎と改め京の因幡薬師道場芝居などで若女方として勤める。天保１４年１１月大阪大西芝居に３代目嵐璃寛を襲名、立役となる。安政２年１２月大阪に戻る。３年正月大阪角の芝居『白縫譚』に若菜姫・秋篠・浪六の３役で座頭となる。大柄ではあったが口跡・台詞ともに良く、時代物に適し立役と女方を兼ね、三都の舞台に勤めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
出典：野島寿三郎『新訂増補歌舞伎人名事典』日外アソシエーツ、2002年6月&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 台本 ===&lt;br /&gt;
『歌舞伎脚本傑作集』の台本『玉藻前御園公服』では、玉藻之前が那須野に逃げるところで終わるため、逃げた後の那須野の台本が見つからなかった。&lt;br /&gt;
代わりに絵本『玉藻の草子』の院宣を受けた後の那須野に発向した上総介と三浦介のストーリーを解説する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
両人は配下の者を引き連れて那須野におもむき、探し回ったところ、ついに草むらから巨大な二本の尾を持った狐が現われた。両人をはじめ配下の者たちは、われさきに弓を射かけたが、自由自在の変化の狐は、四方八方に飛び走り、逃げ去ってしまったのだ。困り果てた両人は、いったん国もとに戻って、弓矢の訓練に励み、再度出陣する。上総介は走る馬にまりを付けて引かせ、そのまりを射るという訓練を、三浦介は狐は犬に似ているので、犬をいろいろと走らせて百日間もその犬を射るという訓練を重ねたという。しかし、那須野の妖狐はいっこうに退治することができない。両人は、このままでは武士の面目丸つぶれ、本国に戻ることもできないと「南無帰命頂礼、伊勢天照太神宮。百王守護八幡大菩薩。とくに宇都宮大明神。日光権現。願はくば明日のうちに、この狐を狩とらせ給れ」と祈った。そのとき、三浦介が見た夢に、年の頃二十歳ほどの美しい女が現われた。女は涙を流して、「わたしはお前に命を奪われようとしている。どうかわたしを助けたまえ。助けてくれれば、子孫末代に至るまで守護神になろう」と語ったところで、夢がさめた。&lt;br /&gt;
「とうとう妖狐も音をあげた。チャンスだ」とばかり、三浦介はまだ夜も明けぬうちから家の子郎党を引き連れて狩り回り、とうとう朝日が昇る頃、野から山へ走り抜けようとする老狐を見事射殺した。霊夢で妖狐が助命を求めたにもかかわらず、それを拒絶して三浦介は退治してしまったのだ。このため、この物語には語られていないが、三浦介の子孫は、この妖狐に祟られることになるのであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
出典：小松和彦『日本妖怪異聞録』小学館、1992年5月&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 場面 ===&lt;br /&gt;
『玉藻前曦袂』で玉藻之前と三浦之助が登場するシーンは第５段の玉藻之前が退治されるシーンだけである。第５段で三浦之助は玉藻之前を那須野で射殺する。今回の絵の三浦之助は弓と矢を持っており、玉藻之前を退治するシーンであることが推測される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:100-9068.jpg|thumb]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== モデル ===&lt;br /&gt;
&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;玉藻之前のモデルについて&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鳥羽上皇の元へ入内した美福門院得子（藤原得子）が玉藻之前のモデルと言われている。&lt;br /&gt;
白河法皇が亡くなり、権力を手にした鳥羽上皇はまず藤原忠実の娘の泰子を皇后に迎える。しかし、泰子との間に皇子が誕生せず、次に入内させたのがこの美福門院得子であった。そして、美福門院との間には皇子躰仁親王が誕生する。そして鳥羽上皇は崇徳天皇に譲位を迫り、躰仁親王を近衛天皇として即位させる。しかし、近衛天皇は早逝してしまう。当時、鳥羽上皇の寵愛を受け、近衛天皇の母となっていた美福門院は朝廷内の実力者となっていた。美福門院は早逝した近衛天皇の次期皇位継承者として崇徳上皇の弟にあたる雅仁親王の皇子、守仁親王を天皇に薦める。亡くなった生母の代わりに美福門院が養育していたからである。だが、守仁親王の父雅仁親王が健在であったため、とりあえず雅仁親王を天皇にすることにしたのであった。これが後の後白河天皇となる。&lt;br /&gt;
崇徳上皇も後白河天皇も同じ鳥羽上皇の子となっているが、崇徳上皇は祖父の白河法皇が本当の父であったといわれている。&lt;br /&gt;
鳥羽上皇に嫌われた崇徳上皇と、鳥羽上皇、美福門院に信頼された後白河天皇の対立は後に勃発した保元の乱へとなる。&lt;br /&gt;
鳥羽上皇の寵愛を受けた美女美福門院は保元の乱の陰の首謀者の一人と言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
出典：小松和彦『日本妖怪異聞録』小学館、1992年5月&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 九尾の狐について ===&lt;br /&gt;
&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;九尾の狐&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:100-9076.jpg|thumb]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本体が金毛玉面九尾の狐である玉藻前という美女は、『下学集』犬追物の話によると、三国にわたって妖異をなし日本で退治される伝説を有している。これが『三国妖婦伝』のもとになり、死後は那須野の殺生石として名を留めているから、九尾の狐は妖獣として忌まれている。&lt;br /&gt;
尾が９つある狐というのは本来有りようが無いが、一般より多くの部分を有するものは、それだけ他よりすぐれているという思想があって、多くは身体のある部分が複数の怪物が言い伝えられている。&lt;br /&gt;
『山海経』にも「青丘の山に獣あり。その状狐の如くにして九つの尾あり。その音嬰児のごとし。よく人を食う。これを食えば蠱されずとあり注にその肉を噉えば、人として妖邪の気に逢わらざしむ。」とあって、中国には狐に似た九尾の獣がいたことになっている。玉藻前が本性をあらわして逃げるときに九尾の狐になったので、こうした狐は悪狐のように思われ勝ちだが、本当は瑞獣なのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
出典：笹間良彦『図説・日本未確認生物事典』柏書房、1994年1月&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;尾について&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
前述した『玉藻の草子』の玉藻前は尾が２本であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
近世初期の知識人林羅山は、玉藻前を妲己と関連づけていた。『本朝神社孝』で、玉藻前調伏について記しつつ、女が狐と化した例として、「殷の妲己が九尾狐となったこと」を挙げている。この妲己と玉藻前が関連づけられたことで、玉藻前の姿も変貌した。中世において、玉藻前の正体は尾が２本ある狐であったが、近世になるとその尾は９本になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
出典：横山泰子『江戸歌舞伎の怪談と化け物』講談社、2008年9月&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== まとめ ===&lt;br /&gt;
[[画像:ArcUP3043.jpg|thumb]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:100-9056.jpg|thumb]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず、地名の「京」と「大尾」について考察したい。&lt;br /&gt;
大尾は「最後」という意味であり、この東海道五十三次が日本橋で始まり「京」がゴールであるということを示している。その上で、「京」と玉藻之前、三浦之助との関係性について考えたい。まず、前述した通り、三浦之助は京方の武将である。また、日本に渡来して以降の玉藻之前の物語は鳥羽院との話が主であり、当然舞台は院の住む京の内裏となる。そして最後に、玉藻之前が退治された後は「その遺骸はただちに京に運ばれ、院の叡覧があった後に、うつぼ舟に乗せて流し捨てられたという。」とある。この三点からも『玉藻前御園公服』と「京」の関係が伺え、「京」の地名と作品の題材として『玉藻前御園公服』が選ばれたことが推測できる。&lt;br /&gt;
玉藻之前は人気が高く、『新板道外狐馬嘉佐礼双六』という、人間が狐に化かされることをテーマにしたものの到達点の位置には玉藻之前がいたという。これは玉藻之前が別格の位置にいたことを示し、人気さが伺える。人気故に妖狐を変形した妖猫の作品も後に作られた。このように双六でも到達点の位置に君臨した玉藻之前が東海道五十三次も到達点として題材に選ばれたのではないかと推測する。&lt;br /&gt;
また、今回の作品では五代目市川海老蔵と三代目嵐璃寛が描かれているが上演年表では安政４年にこの配役で『玉藻前御園公服』を上演した記録がない。しかし配役は違うが安政３年には大阪、京都、堺で『玉藻前』を上演した記録が残っている。作品の配役での上演が無いことからこの作品は見立て絵であると推測される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜこの配役だったのか、初代嵐璃寛まで遡ってみると、初代嵐橘三郎（後の初代嵐璃寛）は『頼政鵺物語』で頼政役を演じた。この時の初代嵐璃寛の姿が弓矢を持ち、まるで三浦之助のような恰好をしているのだ。そして初代嵐璃寛は三浦之助ではなく上総之助役を文政4年の『玉藻前曦袂』で演じていた。さらに二代目嵐橘三郎（後の二代目嵐璃寛）も同じく『頼政鵺物語』で頼政を演じていた。こちらの頼政もやはり弓矢を持ち、三浦之助のような姿である。三代目嵐璃寛自身は頼政を演じてはいないが、これら先代の頼政役の姿から三浦之助を演じる三代目嵐璃寛の姿が浮かんだのではないだろうか。五代目市川海老蔵は天保四年に鳥羽ノ法皇役として『玉藻前御園公服』に出演しており、『玉藻前御園公服』との関わりが全くなかったというわけではないことがわかる。また当時の役者陣の顔ぶれの中で最も妖怪らしい九尾の玉藻之前を演じるにぴったりな役者は五代目市川海老蔵が適役だったのではないだろうかと考える。以上のことから、それぞれの役者が玉藻前シリーズを演じていたかどうかの有る無しに関わらず、役者の持つイメージを先行して選んだのではないだろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
出典：横山泰子『江戸歌舞伎の怪談と化け物』講談社、2008年9月&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
出典：小松和彦『日本妖怪異聞録』小学館、1992年5月&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
出典：大阪歴史博物館『日英交流　大坂歌舞伎展　上方役者絵と都市文化』大阪歴史博物館、平成十七年十月&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 参考文献 ===&lt;br /&gt;
・藤野義雄『南北名作事典』桜楓社、平成5年6月&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・横山泰子『江戸歌舞伎の怪談と化け物』講談社、2008年9月&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・服部幸雄『歌舞伎事典』平凡社、1983年11月&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・乾克己他『日本伝奇伝説大事典』角川書店、昭和61年10月&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・古井戸秀夫『歌舞伎登場人物事典』白水社、2006年5月&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・野島寿三郎『新訂増補歌舞伎人名事典』日外アソシエーツ、2002年6月&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・小松和彦『日本妖怪異聞録』小学館、1992年5月&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・菊池明、花咲一男『原色浮世絵大百科事典　第11巻　歌舞伎・遊里・索引』大修館書店、昭和57年11月&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・笹間良彦『図説・日本未確認生物事典』柏書房、1994年1月&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・伊原敏郎『歌舞伎年表　第七巻』岩波書店、昭和37年3月&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・大阪歴史博物館『日英交流　大坂歌舞伎展　上方役者絵と都市文化』大阪歴史博物館、平成十七年十月&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・為永太郎兵衛・浅田一鳥『浄瑠璃作品要説〈６〉』特殊法人国立劇場、平成2年3月&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・アートリサーチセンター　http://www.arc.ritsumei.ac.jp&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・早稲田演劇博物館デジタル・アーカイブ・コレクション　http://www.enpaku.waseda.ac.jp/db/index.html&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
			&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>WikiSysop</name></author>
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