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	<title>ArcUP4689 - 版の履歴</title>
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		<id>https://www.arc.ritsumei.ac.jp/artwiki/index.php?title=ArcUP4689&amp;diff=62853711&amp;oldid=prev</id>
		<title>2025年5月7日 (水) 00:00にWikiSysopによる</title>
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		<updated>2025-05-07T00:00:04Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;=総合=&lt;br /&gt;
== &amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;「東海道五十三次　水口　おはん」「東海道五十三次　石部　蝶右衛門」&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039; ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:ArcUP4689.jpg|thumb]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
絵師: 三代目豊国&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
版型:大判/錦絵&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
落款印章:豊国画（年玉枠）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
改印:巳三改&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
出版地: 江戸 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
画題:「東海道五十三次　水口　おはん」「東海道五十三次　石部　蝶右衛門」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上演年月日: 安政三年（1856）八月&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上演場所:  江戸・中村座&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
配役：おはん 　三代目　岩井粂三郎&lt;br /&gt;
　　  蝶右衛門　 二代目　片岡我童&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===桂川連理柵===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
分別ざかりの38歳の長右衛門は、親子ほども歳の違う14歳のお半と、ふとしたはずみから石部の宿で契る。お半は伊勢参りの帰りだった。長右衛門は、お半を妻お絹の弟と縁組させようとするが、懐妊しているのでせっぱつまり、お半は書置きを残して桂川に向かう。長右衛門を追い出そうとする継母と義弟の悪計から夫をかばう妻、お絹を残して長右衛門も桂川へ向かい、二人とも心中する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『新版　歌舞伎事典』　平凡社　 1983年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===題材===&lt;br /&gt;
「桂川連理柵」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
原作は安永五年十月十五日初日の北堀江座初演の浄瑠璃。カツラガワレンリノシガラミ。作者は菅専助である。&lt;br /&gt;
中年の男と幼い娘との、文字通り思案のほかの恋として、「お半長右衛門」という言葉が通用する程、特異な事件を題材にしたもの。ただし実説は明瞭ではない。&lt;br /&gt;
十四歳の信濃屋の娘お半は、伊勢参宮の戻り道に関の追分で隣家の帯屋の主人長右衛門とあい、石部の宿に泊る。その夜同行の丁稚長吉がつきまとうのを避けて、隣室の長右衛門の所へ逃れて行ったのが、奇縁となり、お半は懐胎する。（文楽にはこの演出が残っている。）&lt;br /&gt;
歌舞伎では、原作下の巻の「六角堂」から「帯屋」「道行」と出す場合もあるが、「帯屋」を独立させる場合が多い。&lt;br /&gt;
「六角堂」を出すと、雪野を手ばなしたくない才次郎（お絹の弟）のために、長右衛門が百両の金を用立てること、日参に来たお絹に義弟の義兵衛がお半との秘事を告口して、姉に言い寄り、それを聞いたお絹が善後策を講じることなどがわかって、「帯屋」への伏線になる。このお絹は、貞淑な妻で、長吉をお絹が買収しておくのである。帯屋で「長様まゐる」とあるお半の文が、義弟の義兵衛によって持ち出された時に、その長様は自分だと、長吉が買って出るのは、そのためである。&lt;br /&gt;
ここは長右衛門夫婦にお半、長右衛門の養父繁斎と、その後添いの心の悪いおとせ、連れ子の義兵衛等、様々な役柄が出るので&lt;br /&gt;
顔揃いの一座では面白い「帯屋」が見られることがある。しかし、七代目沢村宗十郎のようにお半と長吉を変る例もあり、又六代目中村歌右衛門は、お半とお絹とを変ったことさえあった。&lt;br /&gt;
お絹のクドキは針仕事の型が普通。やさしいようでむずかしい女房役の典型である。繁斎は円満な老人に書かれている。長右衛門を打ったおとせを箒で打ち返したりしないのが、正しい。長吉は帯屋では白痴のようになっているが、原作では腹のある敵役であることが、石部のくだりでわかる。&lt;br /&gt;
桂川の道行は丸本以後に薗八、常磐津、清元等に仕組まれたもので、普通世界を江戸に直した清元の「お半」（道行思案余)が知られている。この芝居では白の手拭で頬かむりした長右衛門がお半を背負うのが、約束の型だが、これがいかにもお半長右衛門の年の釣合を象徴していて面白い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
桂川・・・京都市西部を流れる川。大堰川（おおい）が京都盆地に流入して淀川に合流するまでの部分をいう。（『日本国語大辞典 第二版3』 1972年12月 小学館）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『名作歌舞伎全集 第七巻』　東京創元社　 1969年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:101-3351.jpg|thumb]]　　&lt;br /&gt;
[[画像:500-2318.jpg|thumb]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===登場人物===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;お半・・・&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;信濃屋の娘で十四歳のお半は、伊勢参宮の帰りに石部の宿で子飼いの丁稚長吉に迫られ、たまたま同宿した隣家の帯屋長右衛門の部屋へ逃げ込む。同衾するうちに二人は結ばれて、お半は長右衛門の子を宿してしまう。分別盛りの長右衛門は縁を切ろうとするが、お半は入水する覚悟の書き置きをしたためて桂川へ。書き置きを読んだ長右衛門も後を追い、二人は心中を遂げる。段鹿の子の絞りを着た町家の娘の典型であるが、恋の対象が二十歳以上も離れている点が異彩をはなつ娘役。汚い丁稚の長吉の二役早替りで演じることが多く、可憐な姿がより引き立てられる。歩き方にもあどけなさを強調し、書き置きを紅鼻緒のぽっくりに載せて桂川へと急ぐ。心中場面の桂川では長右衛門がお半を背負った姿が定型で、年の差のある思案の外の恋を絵面でみせる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;長右衛門・・・&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;京の呉服商帯屋長右衛門は、石部の宿で隣家信濃屋の娘のお半一行と泊まり合わせ、同夜丁稚長吉から逃げるお半を助けたことから男女の仲となる。お半は妊娠する。父や妻の真情に泣きつつも、お半と桂川で心中する。実直さの中にもやわらかな男の色気がほしい役。和実の役柄。刀の紛失、金の詮議などにもじっと堪え、お半の書き置きを見て後を追う盛り上げ方が仕どころ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『歌舞伎登場人物事典』　白水社　2006年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===モデル===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;お半・・・&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;モデルは、宝暦十一（1761）年四月十二日に、桂川で水死した信濃屋次郎兵衛の娘お半である。十四歳のお半が隣家の帯屋長右衛門（三十六歳）とともに水死したこの事件は、すぐに大阪豊竹座の人形浄瑠璃『曽根崎模様』に取り組まれた。そののち、歌舞伎でも脚色され、本作『桂川連理柵』が「お半長右衛門物」の決定版となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;長右衛門・・・&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;長右衛門は三十八歳。信濃屋の菩提寺、御所八幡町明福寺過去帳にもそう記される。二人の溺死体が発見されたのは、宝暦十一（1761）年四月十二日のこと。長右衛門は宮川町の芸妓岸野と心中し生き残った過去を持つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『歌舞伎登場人物事典』　白水社　2006年&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===配役===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;おはん・・・三代目　岩井粂三郎&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;　文政十二年十月二日（1829）～明治十五年二月十九日（1882）享年54歳&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
七代目岩井半四郎の子。母は四代目瀬川菊之丞の次女にあたる。初め子役として岩井久次郎と名乗り江戸の舞台に勤めていたが、天保三年（1832）三代目粂三郎と改める。この時、祖父の五代目半四郎が杜若を、また伯父の二代目粂三郎が六代目半四郎をそれぞれ名乗る。父は紫若と名乗って上方に巡業中だった。七年四月伯父の六代目半四郎が没す。弘化元年（1844）父が七代目半四郎を襲名する。翌二年四月父が没し、四年四月祖父が没す。文久三年（1863）十一月中村座で二代目紫若と改める。明治五年（1872）八代目半四郎を襲名する。明治七年六月中村座の座頭となる。大変な美貌で四代目市川小団次の相手を多くつとめ、艶姿を讃えられた。幕末の名女方の一人である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『歌舞伎事典』　実業之日本社　1972年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;蝶右衛門・・・二代目　片岡我童&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;　文化七年（1810）～文久三年二月十五日（1863）享年54歳&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初め市川新之助といい、大阪の子供芝居の座本にいた。また、三升岩五郎と改めたが後に二世璃寛の門に入り、嵐橘二郎といい、京阪の宮芝居で修業し、天保三年（十四歳）春、七世仁左衛門の養子となって我当と改め、同年九月初めて大阪へ出て、同年十一月京都に出て、好評を得た。これより濱芝居へ出でて色立役を専門としたが、天保八年、養父が病死し、その俳名我童を継いで芸名とした。安政元年（四十六歳）の春、初めて江戸へ下って中村座へ現れたが、その年、大阪で自殺した八世団十郎の面影にどことなく似ていると、世間で「八代目の綿入」ともてはやされ、これより俗衆に悦ばれた。四年正月、初めて仁左衛門の名を継ぎ、中村座の座頭となった。仁左衛門は男振りよく、舞台綺麗だったが、体格の小さいところと捨て台詞をあまりに多くいう癖とが欠点であった。天保十二年の「役者舞台扇」曰く、当時、大芝居で色気たっぷり、その上芸の仕出し上品にしてやわらかみがあり、仕内にうまみがある。すなわち、彼の本領は所謂「色立役」である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『歌舞伎人名事典』　日外アソシエーツ株式会社　1988年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===台本===&lt;br /&gt;
道行の場　浄瑠璃「道行思案余」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　本舞台平舞台、正面桂川、夜の遠見、灯入りの月、所々柳の立木。こゝに長右衛門、お半を背負い立見、絵面の見得。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;〽&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;お半を背に逢う瀬さえ、今身につらき仇事の、かえらぬ道と一筋に、なんのうれしの森過ぎて、名残りはつきぬ中の郷、吾妻橋をあとになし、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ト長右衛門、お半をおろし、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;〽&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;瀬を下ろせばさすがにも、姿繕う振袖に、風の含みてほら/\と、空に雨待つ鐘の音も、九つこゝに北東、隅田に手ぐりの火影さえ、明日待たぬ身の何かせん、長命寺とも頼まれぬ、世は牛島の憂き世ぞと、はかなきことをかこつにぞ、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・・・・・・・・・・&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;長右&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;　コレお半、道々も言う通り、この長右衛門は義理に義理、所詮死なねばならぬ身の上、そなたはまだ老先のあるからだ、殊に又親御のうらみお絹が思惑、そなたは兎に角ながらえて、我が亡きあとを弔うてたもるが此の上のこと、思い直してこゝから早う帰ってくれ。聞きわけてたも、コレお半。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;〽&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;お半はなんとないじゃくり、袖に涙をもちそえて、顔打ち眺め、長右衛門さん、なんぼわたしが年がゆかぬと思うてからに、お前ばかりが死なしゃんして、こちゃやゝ産んでながらえて居らりょうかいな。コレもうし、そりゃ可愛いのじゃない憎いのじゃ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;〽&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;ちいさい時から子心に、長右衛門さんが贔屓じゃと、言えばじらして悪う言う、そんなお人にゃ物言わぬ、笑われる程いとしいの、念が通って一度でも縁を結ぶの神さんが、粗相であろとかまやせぬ、一緒に殺してくださんせ。これイなこれと取り付いて、膝に涙の濡れまさる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　トお半は癪を起こす。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『名作歌舞伎全集 第七巻』　東京創元社　 1969年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===場面===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上の台本に書かれているように、この作品の場面は、長右衛門がお半を背負って桂川に向かっている場面である。&lt;br /&gt;
背景が暗いのは、夜に歩いているからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===「水口」「石部」===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
水口・・・滋賀県南東部の地名。江戸時代は東海道五十三次土山と石部の間の宿駅。（日国）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
石部・・・滋賀県甲賀（こうか）郡にある地名。東海道五十三次の、水口と草津の間の宿駅。（日国）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
石部は、長右衛門とお半が契りを交わした場所であるが、水口の関係性は不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:c0205525_1711349.jpg|thumb]][[画像:9_05_2.jpg|thumb]]　&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
===服装===&lt;br /&gt;
「鹿の子」・・・カノコ。絹をつまんで糸でしばり、染めると丸い目の斑ができるが、これを布に適宜施すときは白い斑入りの模様となり、あたかも鹿の体の白斑を創造せしめるところから「鹿の子」と名付けられた。古くは「目結い」といった。一説に、目結いと鹿の子は区別があって、散らし染めたのを鹿の子、並べ染めたのを目結いというとのことである。鹿の子は室町時代から小袖に流行したが、江戸時代になっては延宝から天和にかけて大流行をきたし、全体に鹿の子を施した総鹿の子の豪華な小袖が女性間に絢を競った。鹿の子を全身に加工するのは、大変な手数、したがって巨額な費用を要した。小袖一着分の総鹿の子を結いあげるには専門の職人が一年余もかかったとさえ言われるほどだから、手間賃の廉い当時としても大変な額になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「手拭」・・・江戸時代を通じて盛んに流行した「頬冠り」は手拭の巧妙な利用法である。結び方の一番簡単なものは、手拭を頭から両頬へかけ顎下で結ぶ頬冠りで、農夫に多く見るところから「百姓冠り」という。すこし細くして、左頬で両端をねじって挟む方法が一般に用いられる頬冠りである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『江戸服飾史』　金沢康隆　青蛙房　1962年　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===参考文献===&lt;br /&gt;
『名作歌舞伎全集 第七巻』　東京創元社　 1969年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『歌舞伎事典』　実業之日本社　1972年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『歌舞伎登場人物事典』　白水社　2006年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『歌舞伎人名事典』　日外アソシエーツ株式会社　1988年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『新版　歌舞伎事典』　平凡社　1983年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『菅専助全集　第四巻』　勉誠社　1993年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『浄瑠璃集』（新潮日本古典集成第七〇回）　新潮社　1985年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『原色浮世絵大百科事典　第四巻』大修館書店　1981年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『江戸服飾史』　金沢康隆　青蛙房　1962年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
演劇博物館浮世絵閲覧システム　http://www.enpaku.waseda.ac.jp&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
http://www.google.co.jp&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
			&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>WikiSysop</name></author>
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