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	<title>諸道まめ介 息才男 - 版の履歴</title>
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		<title>2025年5月7日 (水) 00:00にWikiSysopによる</title>
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		<updated>2025-05-07T00:00:04Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;=総合=&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== &amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;【書誌情報】&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039; ==&lt;br /&gt;
書名：諸道まめ介　息才男&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国書所在：東北大学付属図書館狩野文庫蔵&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
分類：黒本&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
題簽：なし&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
丁数：十丁&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
板元：鱗形屋（一丁表・六丁表上部に鱗形屋の商標あり）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
画作者：不明&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
刊年：宝暦八年（１７５８年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==  &amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;【あらすじ】&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;==&lt;br /&gt;
とぢ兵衛という男が、一生の楽しみを極めたいと三河国の「業平観音」にお参りしたところ、夢の中でお告げと共に玉をもらった。夢から覚めたとじ兵衛が節分の豆を食べてその玉に姿を映すと、たちまち背丈が（＊１）一寸八分になった。そこで名前を「（＊２）まめ介」に改め、まず京都に行こうとする。まめ介は往来の旅人が乗るかごの屋根に上り無賃乗車することに。まめ介は（＊３）庄野のあたりで急にお腹が空いたので、焼き米屋に寄り、店先で俵を持ち上げふざける。数日するとまめ介は京へ上り、日本一の大仏を見物。次に京の嶋原へ行こうと思ったものの、あまりの高級感に気詰まりして、「ぎをん町なわて」に向かう。「（＊４）八文字屋」の二階へ上がり、客の襟に取り付いて座敷に入り、酒を大いに楽しむ。そしてまめ介は歩くのに疲れ、京の町を一度に見たいとたこの尾に取り付いた。上空からの景色を楽しんでいると、たこの糸が切れてしまい、「唐天竺」の方へと飛ばされてしまう。まめ介は「唐天竺」との国境付近にある「あんなん国」へと着いた。この国の人は（＊１）三丈二尺の背があり、まめ介を一口で飲み込もうとした。まめ介は助けてくれたらやり踊りを見せましょうと、大男を説得する。その後、「天台山文殊」の「浄土」へ行き、「文殊師利菩薩」と会う。「文殊達磨大師」を頼って葦の葉の船に乗り、三味線を弾く。そのまま達磨大師に小人嶋まで送り届けてもらう。小人嶋に着くと、住人達は彼を怪しんで殺そうとするが、彼の強さに閉口してしまう。まめ介は嶋の女を気に入り、婿入りして一生の楽しみを極め、何年も滞在した。その後、「手長足長国」へ渡り、住人をおちょくったため、肝をつぶした住人に「なんきんごく」へ送られてしまう。「なんきんごく」の王は人形操りを好んでいたので、まめ介が来たことに非常に喜んだ。末永く彼の姿を残そうと大工手形屋に作らせたものが「なんきんあやつり」の始まりである。まめ介は長年滞在していたが、日本が恋しくなって帰りたくなった。大王の許しと様々な褒美を得て、日本から来ていた「天じく徳兵衛」の袖に入って帰国する。まめ介は日本で大金持ちになり、「大黒様」にその幸運を称えられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（＊１）Japan Knowledgeによると、分は約０．３センチメートル、一寸は約３センチメートル、　尺は約３０．３センチメートル、丈は約３．０３メートルである。したがって、一寸八分は約５．４センチメートル、三丈二尺は約９６９．６センチメートルとなる。「あんなん国」の住人がいかに大きいか分かる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（＊２）作中では「まめ介」または「まめ助」と表記されている。作品の題名において「まめ介」を用いているので、あらすじ、並びに本稿では「まめ介」を用いる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（＊３）庄野とは、Japan Knowledgeより「三重県鈴鹿市の地名。江戸時代、東海道五十三次の石薬師と亀山の間に会った宿駅。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（＊４）八文字屋とは、Japan Knowledgeより「京都島原揚屋町に会った揚屋、八文字屋喜右衛門の店。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== &amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;【本文の流れ】&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039; ==&lt;br /&gt;
①とじ兵衛が三河国の「業平観音」にお参りに行く。その後、まめ介に改名し、京を目指す（一丁裏～二丁表）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
②庄野で焼き米屋に寄る（二丁裏）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
③京へ到着し、日本一の大仏を見物（三丁表）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
④嶋原へ行こうとするが、気後れして「ぎをん町なわて」の「八文字屋」に紛れ込む（三丁裏～四丁表）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
⑤たこの尾につかまり京の町を展望していると、たこの糸が切れて飛ばされてしまう（四丁裏～五丁表）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
⑥あんなんこくに着くと、住人に食われそうになる（五丁裏）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
⑦「天台山文殊」の「浄土」で「文殊師利菩薩」に会う（六丁表）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
⑧葦の葉の船に「文殊菩薩達磨大師」と乗り、小人嶋へ向かう（六丁裏）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
⑨小人嶋で住人に襲われるが返り討ちにし、この嶋にしばらく住み着く（七丁表～八丁表）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
⑩「手長足長国」に渡るものの、すぐに「なんきん国」に送られてしまう（八丁裏～九丁表）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
⑪「なんきん国」で国王に気に入られる（九丁裏～十丁表）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
⑫日本に戻り、まめ介は大金持ちになる（十丁裏）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== &amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;【様々な他作品からの影響】&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039; ==&lt;br /&gt;
　『諸道まめ介　息才男』（以下、本文）では数多くのパロディ、つまり他作品を滑稽化して組み込む、ということが行われている。先に挙げた【本文の流れ】をもとに、どのような作品が本文で使われているのかをまとめた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===①とじ兵衛が三河国の「業平観音」にお参りに行く。その後、まめ介に改名し、京を目指す===&lt;br /&gt;
　一丁表は『伊勢物語』第九段と類似する点が数多くある。次に『原文＆現代語訳シリーズ　伊勢物語』（以下『伊勢物語１』と表記）から該当箇所の現代語訳を引用する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　むかし、男があった。その男は、わが身を、この世には不要なものときめこんで、「京には住まないつもりだ。東の方面に、住むことのできるところをさがしに」ということで、出かけて行った。古くからの友達ひとり、ふたりと連れ立って行った。道をよく知っている人もいずに、迷い迷い行った。三河の国の八橋という所に着いた。そこを八橋といったのは、沢水が流れている川が、蜘蛛の手足のように八方に分かれているために、橋を八つ渡してあるから、「八橋」といったのである。その沢のかたわらの木陰に、馬から降りて坐って、乾飯を食べた。その沢に、かきつばたが大変晴れやかにあかるく咲いている。それを見て、ある人が言うには、「か・き・つ・ば・たという五文字を、それぞれの句の頭において、旅中の思いをよみなさい」と言ったので、よんだ歌、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
唐衣きつつ馴れにしつましあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　とよんだので、みんなは、乾飯の上に涙を落として、乾飯がふやけてしまった。（後略）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　まずは文章中の「三河国業平観音」についてである。どちらも三河国が話の舞台になっている。『ビジュアル版日本の古典に親しむ⑫　伊勢物語』（以下『伊勢物語２』と表記）によれば、「三河国は愛知県南部の旧地名。八橋は、現在の愛知県知立市八橋町に史跡が残る。」とある。「業平観音」については後述する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　次に絵に描かれているものについてである。ここには、川の流れ、いくつかの桟橋のようなもの、そしてかきつばたがある。『伊勢物語』で書かれた八橋の情景と類似している。また、これを八橋の場面である証拠として、『原色浮世絵大百科事典』より、鈴木春信の「見立八つ橋」を例に挙げる。「見立八つ橋」で描かれている背景が、まさに本文の絵と同じである。八橋は本来「沢水が流れている川が、蜘蛛の手足のように八方に分かれているために、橋を八つ渡してあるから」八橋というのであって、絵で表現するなら八つに分かれた川のそれぞれに橋が渡してあるべきである。しかし江戸時代では、八橋はこのように認識されていたのだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===⑦「天台山文殊」の「浄土」で「文殊師利菩薩」に会う===&lt;br /&gt;
　ここでは能の『石橋』が元になっている。以下にあらすじを載せる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　寂昭法師が唐・天竺に渡り、文殊菩薩が住むという清涼山（しょうりょうせん）にいたり、石の橋を渡ろうとすると、来かかった樵夫に制止される。樵夫のいうには、この橋は幅が一尺にも足らず、苔で滑りやすく、下は千丈の谷底で、人間の渡り得る橋ではない。ここでしばらく奇瑞を待つのが良いと教えて立ち去る。やがて、菩薩に仕える霊獣の獅子が現れ、山一面真っ盛りの紅白の牡丹に戯れつつ、豪華な舞を舞う。&lt;br /&gt;
（『能・狂言事典』より）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　⑦では、本文の舞台が『石橋』に登場するもの、そのものである。『石橋』と同一の箇所は、文章中では「幅一尺の橋」「千丈の谷底」「（＊５）文殊師利菩薩」である。絵の中では、文殊菩薩と霊獣の獅子が描かれている。大きく異なる点は、寂昭法師がまめ介になっているところだけである。ただし、あらすじには「この橋は幅が一尺にも足らず、苔で滑りやすく、下は千丈の谷底で、人間の渡り得る橋ではない。」とあるものの、まめ介は身の丈が「一寸八分」である。人間にとっては危険な橋でも、まめ介にとっては十分な幅を持った橋なのである。まめ介の小ささを生かした表現が、⑦における面白さとなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　また、本文中に「瀬川菊之丞」とい人名が登場する。（＊６）『歌舞伎人名事典』より、これは初代瀬川菊之丞のことである。まめ介が役者を気取って文殊菩薩に手を振っているような様子も、読者の笑いを誘ったのではないだろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（＊５）ちなみに、『岩波仏教辞典』には、「＜文殊＞はサンスクリット語（中略）の音写＜文殊師利＞の略で、＜曼殊師利＞などとも音写する。（中略）後代の彫刻ではしばしば獅子に乗って現れる。」とある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（＊６）『歌舞伎人名事典』からの引用を次に乗せる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
歌舞伎役者　元禄６年（１６９３）～寛延２年９月２日（１７４９）　享年５７歳　&lt;br /&gt;
（中略）&lt;br /&gt;
初め大坂道頓堀貝塚屋仁三郎抱えの役者となり、浜村屋吉次と名乗っていたが、のち瀬川竹之丞の門人瀬川吉次と改め師について修行。師が京の俳諧師仙鶴と相談、瀬川菊之丞と改め宝永６年（１７０９）ねん正月大坂嵐三十郎座「西の宮蛭子命」に若女方として女人形役で初舞台を踏む。（中略）享保５（１７２０）年京に上り１１月榊山座「十二調子恵子宝」におこぼ風の八ちよ姫役が大評判。７月１１月京にて座本となり「大柱金細石」に白梅役。３年間座本を勤め１０年１１月京嵐重次郎座「千歳蔵三蓋松」に浪右衛門女房分役。１５年江戸に下り１０月中村座「相生獅子」の石橋の舞所作が大当たり。（後略）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===⑧葦の葉の船に「文殊菩薩達磨大師」と乗り、小人嶋へ向かう===&lt;br /&gt;
　これは「芦葉達磨」が元になっている。「芦葉達磨」とは、『原色浮世絵大百科事典』によると、「禅宗の祖達磨大師がインドから中国へ渡る時、芦の葉に乗って渡ったという伝説が、画題として定着し、「芦葉達磨」と呼ばれている」とある。さらに⑧で用いられているのは、船頭を遊女にしたてたものである。同事典によると、達磨と遊女という組み合わせは一蝶が始めたと言われている。⑧の絵では、一枚の芦の葉に達磨大師とまめ介が一緒に乗っており、まめ介が三味線を弾いている。この三味線というのは遊女を表していると思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「芦の葉に乗って」と聞いて想像するのは、大きな一枚の芦の葉を船に見立てた姿である。しかし浮世絵の世界ではこれとは異なるイメージで捉えられていたようだ。同事典より、奥村政信が「芦葉達磨」を描いている。これは、船頭が遊女で達磨と一緒に芦の葉に乗っている。彼らが乗っている芦の葉とは、葉というより茎そのものである。細い茎の上に、彼らは器用に乗っているのだ。また、『全集浮世絵版画』にある春信の「見立芦葉達磨」では、赤い着物を身にまとった美女を達磨に見立て、彼女もまた芦の葉の茎の上に乗っている。このような芦の葉の表現は、葉ならまだしも浮くかも分からない芦の茎に彼らが乗ることで、達磨の神通力のような不思議な力を強調しているのではないかと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===⑨小人嶋で住人に襲われるが返り討ちにし、この嶋にしばらく住み着く===&lt;br /&gt;
　七丁表の絵が、『国姓爺合戦』をもとに書かれている。以下にあらすじを載せる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　故国、明の危急をきいた和藤内は、父母とともに大陸に渡る。千里ヶ竹で猛虎を天照皇大神の御札で威服させたあと、父一官は、獅子ヶ城におもむき、先妻との間にもうけた娘錦祥女の夫で韃靼の従官甘輝の援助を求める。甘輝は、妻の縁にほだされて味方することを潔しとしない。しかし、錦祥女と和藤内の母の自害によって心を動かされ、味方を引き受ける。和藤内は、国姓爺と名を改め、甘輝と力を合わせて、明国回復の戦いに出るのであった。&lt;br /&gt;
（『歌舞伎ハンドブック』より）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　⑨に描かれている人々の服装は明らかに日本の着物とは異なり、歌舞伎に描かれている「国姓爺合戦」の登場人物のものと類似している。『芝居版画等図録』７巻８４番の三代目豊原国周の「国性爺合戦」を例に挙げる。小人島の住人達は、甘輝のような大きな襟のついた服を着ている。一方のまめ介は着物を上だけ脱いでいるような、つまり図録の中の和藤内と同じ格好をしている。本文の絵は、歌舞伎の世界を忠実に再現しているのだ。さらに、七丁裏に登場する小人島の女達も、図録の錦祥女と同様の格好をしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　本文中に「今団十郎」という人名が登場するが、これは市川団十郎のことである。先に挙げた豊原国周の絵に描かれているのも、市川団十郎である。『歌舞伎大事典』には「江戸時代の團十郎は俗に「お江戸の飾り海老」と呼ばれて江戸劇壇の象徴的な存在であった。」とある。また、同事典の国姓爺合戦の項目において、「江戸でも歌舞伎化されたが、和藤内を市川團十郎が荒事で演じるやり方が定着した。」とある。以上のことから、歌舞伎と言えば、さらに「国姓爺合戦」と言えば市川團十郎という認識が江戸の人々の間に浸透していたと言える。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ここからは、本文の補足的説明を載せる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===④嶋原へ行こうとするが、気後れして「ぎをん町なわて」の「八文字屋」に紛れ込む===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　まず、嶋原とは京都にあった遊郭のことである。『角川古語大辞典』には「京都の遊郭。葛野郡朱雀村に開かれた傾城町西新屋敷の通称。付近は朱雀野とい田圃の中。（中略）元禄（１６８８－１７０４）期までは至極の郭であったが、元禄後半以後は不景気と私娼街の繁栄によって、以前の盛りを失った。また、江戸・大阪と比べては古風沈滞の感を免れず、近世中期以後は、祇園に敵し得ずしてさらに衰退した。」とある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　本文が成立したのは宝暦八年、西暦1758年である。嶋原の最盛期を経て、すでに衰退期の真っただ中のはずである。にもかかわず、まめ介は嶋原に対し「なかなか気づまりゆえ」八文字屋に向かっている。何が彼を嶋原から遠ざけたのか。この理由を考えるうえで、今西一氏が『遊女の社会史』の中で書いた、嶋原の衰退の理由が参考になる。「一つは営業時間の短さであり、夜間営業（夜見世）が行えず、揚町屋で客を泊めるのに限られていた。二つは「辺境の異界」ともいうべき地理的不便さである。」「島原で唯一残されたのは古風な穏やかさ雅やかさだけだが、これだけでは祇園の華やかさに勝てるはずはなかった。」と書かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　以上から、まめ介が「ぎをん町なわて」に行った理由は、遊郭らしい「華やかさ」を求めたからだろう。まめ介は「一生の楽しみを極めん」と言って旅を始めるのである。彼が求めているのは「古風な穏やかさ雅やかさ」ではなかったはずだ。したがって、嶋原に行ってみたものの、一見さんでも入れるような気安さはなかったと思われる。結局、彼の足は祇園に向いてしまったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===⑪「なんきん国」で国王に気に入られる===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　まず、「南京操」について説明する。Japan　Knowledgeには「人形あやつりの一種で、小さい人形の各部に糸をつけて上よりつりさげ、上部でその糸を操って人形をおどらせる劇。江戸初期から演じ始められた。いとあやつり。南京糸あやつり。なんきん。」とある。本文において南京操の話は特に重要なものではない。無かったとしても不自然ではないだろう。それでも書かれているということは、南京操が当時江戸で随分と知名度が高かった、人気があった、と推測できる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　次に、まめ介と共に日本に帰った天竺徳兵衛についてである。これは歌舞伎の「天竺徳兵衛韓噺」から来ている。以下にあらすじを載せる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　将軍家より預かる宝剣浪切丸を紛失した佐々木桂之介は、家老吉岡宋観邸へ蟄居する。気を慰めようと、天竺帰りの徳兵衛が呼び出され、異国話を披露する。探索の猶予も今日限りとなり、桂之介は切腹しようとするが、宋観は恋人の銀杏の前とともに桂之介を逃がす。将軍家の使者梅津掃部の前で、宋観は自害する。徳兵衛がわが子大日丸とわかった宋観は、もともと大明国王の臣木曽官で、隠しもっていた浪切丸と蝦蟇の妖術を譲り渡し、日本を手中に納める野望を徳兵衛に引き継ぐように託した。取り囲む捕手を徳兵衛は秘伝の蝦蟇の術で翻弄して立ち去る。&lt;br /&gt;
　梅津掃部の座敷に座頭徳市じつは徳兵衛が入りこむが、正体を見抜かれて池の中へ飛びこんで逃げる。次に斯波左衛門と名乗る上使が現れるが、これも正体が徳兵衛だと見破られ、巳の年月がそろった生まれの掃部の妻葛城の血で、蝦蟇の妖術も消えた。浪切丸は無事に戻り、佐々木家の再興が約束され、徳兵衛の野望は潰えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（『歌舞伎ハンドブック』より）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　本文では「天竺徳兵衛韓噺」の設定が利用されている訳ではなく、ただ徳兵衛が登場しているだけである。また、まめ介と徳兵衛には異国を旅した者、という共通点がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== &amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;【なぜ「業平観音」なのか】&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039; ==&lt;br /&gt;
　先に述べたように、一丁表は『伊勢物語』を踏まえて書かれている。では、なぜ『伊勢物語』、そして「業平観音」だったのかについて、考察する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　まず、『伊勢物語』の主人公について考える。物語の中では終始「男」としか書かれていない。『伊勢物語１』で永井和子氏は、「この物語にある話は、事実ではなくて、「業平らしさ」に添って作られた虚構である。」としている。しかしながら、本文では『伊勢物語』これほどまでに多用し、「業平観音」というものを登場させている。つまり、江戸の人々にとっては、『伊勢物語』の主人公は明らかに在原業平なのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　さて、『伊勢物語』第九段における主人公の男は、都に住みづらいからと東下りをしている。実は、東下りの話は第七段から語られている。この三つの段の中だけでも、男は京都から信濃の国、つまり現在の長野県にまで行っている。また、男は他の段で陸奥の国、今の東北地方にまで足をのばしている。（＊７）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　次に、「業平観音」について考える。『岩波仏教辞典』に「不退寺」という在原業平と関連する寺についての記載があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　奈良市法蓮町にある真言律宗の寺。西大寺の末寺。山号は金竜山。古くは＜不退転法輪寺＞とも＜在原寺＞とも称し、南都十五大寺の一つに数えられた。悲運のうちに崩御された平城上皇（７７４－８２４）の冥福を祈って皇子阿保親王（７９２－８４２）とその子在原業平（８２５－８８０）が、上皇相伝の離宮＜萱の御所＞を８４７年（承和１４）に寺に改め、業平自刻の観音像を安置し、不退転法輪寺と称したとの寺伝を持つ。（後略）&lt;br /&gt;
（『岩波仏教辞典』より）　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　不退寺については、「業平自刻の観音像」という「業平観音」につながるものがあるが、所在地が奈良である。したがって、不退寺の観音像とは直接の関係はないものの、ただ業平を本文に登場させる、しかも何かしらの不思議な力を持たせるために「在原業平」「観音」という言葉だけを借りたのではないだろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　以上のことから、本文の一丁表で『伊勢物語』「業平観音」が用いられたのは、主人公の男が「自由」というイメージで江戸の人々に捉えられていたからではないだろうか。京都から遠く陸奥の国まで、交通手段が徒歩か馬くらいしかない時代に、これほどの道のりを旅するには、多くの時間とお金が必要であったと考えられる。また、『伊勢物語』多くの女性との話も書かれている。『伊勢物語１』で永井氏は『伊勢物語』を「現実から逸脱したところで、男性の理想とする男性の解放された自在な姿が描かれているといってよかろう。」（＊８）と見ている。つまり、『伊勢物語』主人公の男は時間的・経済的な余裕があり、しかも思うままに恋を楽しんでいる、自由な生き方をしている、として江戸の人々に認識され、理想の生き方として羨望されていたのだろう。本文は、言わば江戸版伊勢物語なのだ。主人公のまめ介が男、在原業平のように楽しみを極めたいと言って、「業平観音」にお参りに行く。これは、実は非常に筋の通ったことであったのだ。そしてまめ介は願いの通り、様々な場所を旅し、最後には多くの富を得てめでたしめでたし、で終わっている。『諸道まめ介　息才男』は、当時の人々の理想や夢が詰まった物語であると言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（＊７）『伊勢物語１』『伊勢物語２』より、男は第七段から第十五段の間に伊勢、信濃の国、三河の国、武蔵国、下総の国、陸奥の国を旅している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（＊８）永井氏はこの前に、「男性の本領が、未知の冒険者として、狩人的なものであるとすれば、愛の充足を知らず、永遠に求め続けて彷徨し、しかも、その一つ一つの愛に心から打ち込むことこそが、男性の側の純粋・誠実というものであろう。」と書いている。簡単に言えば、男性にとって、好きになった何人もの相手を真剣に愛することこそが素直な生き方である、ということだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==  &amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;【まとめ】&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;==&lt;br /&gt;
　本文の特徴&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・『伊勢物語』を踏まえた表現を用いることで、江戸の人々の理想を作品に表している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・歌舞伎や能の演目から取り込んだ表現を用いている。まめ介が役者のまねをしたり、作品の登場人物が出てくることで、読者の笑いを誘っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・当時の江戸における、様々な作品に対する認識の仕方を知ることができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　様々な作品から要素を取り込んでいて、非常に面白い作品である。まめ介の行動の表現が体の小ささを生かしたものであり、そこも意識して読むとさらに楽しめる作品である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== &amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;【参考文献】&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;==&lt;br /&gt;
Japan　knowledge　（ http://www.jkn21.com/individualsearch/displaymain ）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中村幸彦ほか編『角川古語大辞典』角川書店　１９８２．６&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中村元ほか編『岩波仏教辞典』岩波書店　２００２．１０&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永井和子訳・注『笠間文庫　原文＆現代語訳シリーズ　伊勢物語』笠間書院２００８．３&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中村真一郎著『ビジュアル版日本の古典に親しむ⑫　伊勢物語　業平の心の遍歴を描いた歌物語』世界文化社２００７．２&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
西野春雄ほか編集委員『能・狂言事典』平凡社　２０１１．１&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
野島寿三郎編『歌舞伎人名事典』紀伊國屋書店　２００２．６&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
藤田洋編『歌舞伎ハンドブック』三省堂　２００６．１&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神山彰ほか編集委員『最新　歌舞伎大事典』柏書房　２０１２．７&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山口桂三郎ほか執筆『原色浮世絵大百科事典第６巻　師宣―春信』大修館書院　１９８２．１&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
座右宝刊行会編・制作　渋井清・菊池貞夫監『全集浮世絵版画』集英社　１９７６&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国立劇場調査養成部資料課編『芝居版画図録』第３，７，９巻　国立劇場　１９７９&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今西一著『遊女の社会史―島原・吉原の歴史から植民地「公娼」制まで―』有志舎　２００７．１０&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
			&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>WikiSysop</name></author>
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