<?xml version="1.0"?>
<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom" xml:lang="ja">
	<id>https://www.arc.ritsumei.ac.jp/artwiki/index.php?action=history&amp;feed=atom&amp;title=%E3%80%8C%E5%B3%B6%E5%B7%A1%E3%82%8A%E3%82%82%E3%81%AE%E3%80%8D%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%9C%B0%E5%9B%B3</id>
	<title>「島巡りもの」の世界地図 - 版の履歴</title>
	<link rel="self" type="application/atom+xml" href="https://www.arc.ritsumei.ac.jp/artwiki/index.php?action=history&amp;feed=atom&amp;title=%E3%80%8C%E5%B3%B6%E5%B7%A1%E3%82%8A%E3%82%82%E3%81%AE%E3%80%8D%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%9C%B0%E5%9B%B3"/>
	<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.arc.ritsumei.ac.jp/artwiki/index.php?title=%E3%80%8C%E5%B3%B6%E5%B7%A1%E3%82%8A%E3%82%82%E3%81%AE%E3%80%8D%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%9C%B0%E5%9B%B3&amp;action=history"/>
	<updated>2026-07-11T12:54:04Z</updated>
	<subtitle>このウィキのこのページに関する変更履歴</subtitle>
	<generator>MediaWiki 1.43.0</generator>
	<entry>
		<id>https://www.arc.ritsumei.ac.jp/artwiki/index.php?title=%E3%80%8C%E5%B3%B6%E5%B7%A1%E3%82%8A%E3%82%82%E3%81%AE%E3%80%8D%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%9C%B0%E5%9B%B3&amp;diff=62859180&amp;oldid=prev</id>
		<title>2025年5月7日 (水) 00:00にWikiSysopによる</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://www.arc.ritsumei.ac.jp/artwiki/index.php?title=%E3%80%8C%E5%B3%B6%E5%B7%A1%E3%82%8A%E3%82%82%E3%81%AE%E3%80%8D%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%9C%B0%E5%9B%B3&amp;diff=62859180&amp;oldid=prev"/>
		<updated>2025-05-07T00:00:04Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;=総合=&lt;br /&gt;
==　「島巡りもの」とは　==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その名の通り、主人公が様々な島をめぐる物語の総称。『近世子どもの絵本集』の『義経島めぐり』の解題では「異国巡り」と表記され、「異国巡りの趣向は、風来山人（平賀源内）の『風流志道軒伝』や、数種の草双紙、曲亭馬琴の『夢想兵衛胡蝶物語』などに取り入れられ、幕末には生人形に作られるなど、一つの系統をなしている。」と書かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本稿では「島巡りもの」として赤本『義経島めぐり』と『豆右衛門』を用いる。以下はそれぞれの書誌情報である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　また、刊行年に関して『近世子どもの絵本集』の解題より、『豆右衛門』は「女髷から元文―宝暦初期頃の作と推定される」とある。『義経島めぐり』は、正徳２年（1712年）刊の『和漢三才図会』から引用している部分があるため、正徳２年以降と考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（日本古典籍総合目録データベースより１，２，３，４，５を、『近子どもの絵本集』より６，７を引用。１、統一書名　２、巻冊　３、分類　４、著者　５、国書所在　６、題簽　７、現存丁数)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===『義経島めぐり』===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１、義経島めぐり（よしつねしまめぐり）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２、二巻&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
３、赤本&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
４、西村重長　画&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
５、【版】大東急（有欠）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
６、欠（書題簽「義経島めぐり　赤本　西村重長画」）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
７、八丁（二～四、以下丁付部分破損。第五丁も欠か）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*内容は、題名の通り義経とその部下たちが様々な島を巡るというもの。欠けている箇所があるためか、『諸道まめ介　息才男』のような一貫した物語はない。丁が変わるごとになんの脈絡も無く別の島に移動している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*めぐった島の順番&lt;br /&gt;
（『近世子どもの絵本集』を参照し、木村八重子氏の「赤本「義経島めぐり」をめぐって」による順序に従った。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
島々の遠景と共に義経と弁慶が描かれている　→　八丈島　→　女護島　→　小人嶋　→　足長じま　→　手ながじま　→　作中に表記はないが、穿胸　→　鬼が嶋　→　くろんぼうしま　流沙川　→　作中に唐風の人物がいることから、唐か&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===『豆右衛門』===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１、豆右衛門（まめえもん）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２、二巻&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
３、赤本&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
４、不明&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
５、【版】大東急（上巻欠）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
６、なし（書題簽「豆右衛門赤本」）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
７、五丁（六丁～十丁のみ）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*『豆右衛門』は、『諸道まめ介　息才男』のような展開をしている。つまり、小人嶋で鷲を持ち上げ怪力を見せつけ、そこから日本に帰り、億万長者になる、という流れである。丁数が大幅に少ないためか、「島巡りもの」の要素は少ない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*めぐった島の順番&lt;br /&gt;
（『近世子ども絵本集』を参考にまとめた。（）内には大体のあらすじを載せている。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鬼の島　（豆右衛門が鬼に食われるものの、鬼の腹の中で暴れる）　&lt;br /&gt;
→小人嶋　（小人に鷲をけしかけられるが、それを捕まえて見せ、小人嶋を見学後に帰国）&lt;br /&gt;
→　日本　（人々にからかわれるものの、彼にふさわしい領地と神々からの宝物を得て、億万長者になる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===島について===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『和漢三才図会　３』より、それぞれの作品に登場した島について該当箇所を引用する。なお、（）内には『和漢三才図会　３』における表記を示した。&lt;br /&gt;
*女護島（女人国　俗に女護島）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『三才図会』（人物十二巻）に次のようにある。女人国は東南海上にある。そこでは水は東流し、数回に一回長さ一尺ばかりの泛蓮が開く。桃の核は長さ二尺ある。むかし舶舟がその国に飄着した。女が集まってきてその船を携え持ち帰った。舟に乗ってきた人々はほとんど死なんばかりの有様であった。その時一人の智者があって夜に船を盗み、その国から脱出することができた。そして女人国の話を伝えた。（後略）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*小人嶋（小人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『三才図会』に、「東方に小人国があり、竫という。身長は九寸。海鶴は彼等に遭えば彼等を呑み込む。それで外出するときは群行する」（人物十四巻）とある。（後略）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*足長じま（長脚　長股）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『三才図会』（人物十四巻）によれば、長脚国は赤水の東にある。その国の人は長臂国と近しい。人々は常に長臂人を背負って海に入り魚を捕る。思うに長臂人の身体は中人のようで臂の長さは二丈。これから類推すれば長脚は三丈くらいであろう、とある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*手ながじま（長臂）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『三才図会』（人物十四巻）によれば、長臂国は憔僥国の東にある。その国の人は海の東にいる。その人々は手を垂れると地まである。昔ある人が海中で一つの布衣の袖を拾ったが、それは一丈あまりの長さがあったという、とある。(後略)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*穿胸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『三才図会』（人物十四巻）によれば、穿胸国は盛海の東にある。人々は胸に竅があいている。尊者は衣を着けず、胸の竅に竹木を通し、卑者に擡がせる、とある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*くろんぼうしま（崑崙層斯）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『三才図会』に、「崑崙層斯国は西南海上にある。大鵬がいて飛ぶと日を覆い隠し、駱駝を食べる。その大鵬の翥を拾い管に截つと水桶を作ることができる。　　野人がいて黒漆のような身体をしている。その国の人は食物をまいてこの野人を誘い出し、これを蕃商に売り、蕃商は奴とする」（人物十四巻）とある。（後略）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==江戸時代の地図==&lt;br /&gt;
　　ここでは、江戸時代における地図の歴史を見ていく。以下は『地図出版の四〇〇年――京都･日本・世界』より、特に重要だと思われるものを抜粋して、年表にしたものである。また、（）内は地図を簡潔に説明したものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1471年頃　『海東諸国紀』　　　（世界で最も古い日本図。作者は申叔船、出版地は朝鮮。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慶長年間（1596～1615年）　『拾芥抄』の大日本国図　　　（『拾芥抄』の挿絵であり、初めての日本図。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1602年　『坤輿万国全図』　　　（マテオ・リッチによる、地名が漢字表記の世界図。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1626年頃　「寛永平安町古図」　　　（最古の観光都市図。『都記』と題された木版墨刷りの地図であり、「寛永平安朝図」は通称。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1645年　『万国総図』　　　（最古の出版世界図。縦長の様式で東を上とする。民族図とセットである。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1652年　『万国総図･世界人形図』　　　（1645年の『万国総図』と並び、日本での最古級の出版世界図。縦長の様式で東を上とする。「長人」や「小人」が描かれた『万国人形図』とセットである。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1688年　『万国総界図』　　　（石川流宣による世界図のみで最も有名なもの。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1710年　『南瞻部州万国掌菓之図』　　　（作者は鳳潭で、仏教系世界図。当時存在を信じられていた「長人国」も描かれている。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1744年　『万国図』　　　（本屋彦兵衛により刊行されたもの。仏教系世界図とリッチ系世界図が融合している。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1774年　『懐宝京絵図』　　　（携帯用の京都図。正本屋吉兵衛によって出版される。大きさは縦35センチ、横47センチ。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1787年　『早見京絵図』　　　（「作者　不背」として正本屋吉兵衛が出版。縦６８センチ、横９２センチであるが、折り畳むことで長辺約１７センチ、短辺約１２センチになる。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　『諸道まめ介　息才男』の刊行は、前期の発表より宝暦８年（1758年）とされている。また第一章より、『豆右衛門』は元文～宝暦初期、『義経島めぐり』は正徳２年以降に成立している。これらの島巡りものが刊行される頃には、国内どころか世界地図まで日本に存在しているのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==江戸の人々にとっての外国==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===作品より===&lt;br /&gt;
『歌舞伎登場人物事典』より、異国が登場する作品を四つ挙げ、作品のあらすじを引用したものを載せる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*毛剃九右衛門&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
九州門司ヶ関の海上に海賊九右衛門は船を碇泊している。小町屋惣七はそうとは知らずこの船に乗り合わせるが、偶然手下が抜け荷の高価な品物を持ち帰って積み込んでいるのを目撃する。これに気づいた九右衛門は手下に手下に惣七を海に投げ込ませる（「元船」）。九死に一生を得た惣七と九右衛門は再び、博多の遊郭奥田屋で邂逅する。九右衛門は惣七の運の強さに仰天するが、惣七を強引に仲間にする（「奥田屋」）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*源為朝&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
源氏の英傑為朝の伊豆大島での旗揚げから、琉球への流浪、一子舜天王を島に残しての帰還までを描く。この間の波乱万丈の物語は、その核心に為朝の「未完の英雄」のイメージがある。故崇徳上皇の陵に詣で、霊前で腹掻き切る、その夢は果たされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*天竺徳兵衛&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
播州高砂の船頭徳兵衛は、吹き流されて天竺（インド）を経巡り、帰国して珍しい異国の話をする。実の父吉岡宋観こと朝鮮国の臣下木曽官と出会い、叛逆の意思を受け継ぎ、蝦蟇の妖術を譲り受ける（吉岡宋観邸）。宋観の一子大日丸こと天竺徳兵衛は、座頭徳市や上使斯波左衛門となって現れるが、巳の年巳の月巳の日に生まれた掃門の妻葛城の生血により術をくじかれる（「梅津掃門邸」）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*玉藻前&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
金毛九尾の狐が美女に化け、天竺や中国で王を迷わせて追い払われたのち、日本に飛来。花陽夫人改め玉藻前の名で鳥羽院の寵愛を受けるが、陰陽師安部泰親の祈祷によって調伏せられ、狐の姿になって那須野の原へ飛び去る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　「毛剃九右衛門」は、彼が「海賊」であるという点が異国と結びつく。これは「倭寇」のイメージが混入されたものだと思われる。『国史大辞典』によると、「倭寇」とは「朝鮮半島・中国大陸・南方諸地域の沿岸や内陸で行動した寇賊集団に対し、朝鮮人・中国人がつけた称呼。（後略）」で、『日本国語大辞典』には「日本の盗賊。倭人の群盗。特に、鎌倉末・室町期に、朝鮮半島・中国大陸沿岸を襲った日本の海賊を、朝鮮・中国側で呼んだ呼称。はじめ北九州や瀬戸内海の土豪・沿岸漁民が武装して私貿易を営み、しばしば海賊化して高麗および李氏朝鮮を悩ましたもので、後に大陸沿岸で活動した時には多くの明の乱民が加わっていた。朝鮮・明国は室町幕府にその禁圧を求め、近世初期にその活動は終息した。八幡（ばはん）。」とある。また、＊１『国史大辞典』によると海賊が目立って活動していたのは室町時代以前のことであると言える。どちらも海上で活動する賊であり、主な拠点が北九州であること、近世初期には活動が終息したことから、人々の間で「海賊」と「倭寇」は同じものとしてとらえていたと考えられる。したがって、「毛剃九右衛門」における「海賊」は、国内外を荒らす盗賊を意味しているのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　源為朝の話は、曲亭馬琴の『椿説弓張月』が有名である。『日本国語大辞典』には「江戸後期の読本。五編二九冊。曲亭馬琴作。葛飾北斎画。文化四～八年（一八〇七～一一）刊。源為朝を主人公として、為朝伝説を縦横に利用し、「保元物語」「太平記」などの古典、中国の「水滸後伝」「五虎平西全伝」「照世盃」等の構想と趣向を生かした伝奇小説で、九州、京都、伊豆七島、琉球を舞台に、雄大な構成で波乱に富む筋を展開させた。史上不遇に終わった為朝を琉球に延命させ、その子舜天丸（すてまる）が琉球王になると設定することによって、人々の歴史に対する憤懣を解消することを意図した。「八犬伝」と並ぶ、馬琴の代表的な長編。」とある。「史上不遇に終わった」というのは、『国史大辞典』によると、保元の乱によって伊豆大島に流された為朝が近隣の島々の島民と盗賊まがいのことを行い、朝廷に攻められ大島で自害した、ということである。また、為朝伝説として「為朝は大島を脱出して琉球にわたり、婦を娶って舜天王を生んだ」というものがあり、ここに異国である琉球が出てくる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　「天竺徳兵衛」や「玉藻前」に関しては、異国にいたことが作中で示されている。どちらも天竺や朝鮮、中国などの近隣諸国が異国の舞台となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　以上から、様々な作品にみられる異国は、どれも天竺や朝鮮、中国、琉球といった近隣の国々である。江戸の人々にとっての異国には、アジア圏を出ないものであったと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＊１ジャパンナレッジの『国史大辞典』より「海賊」の項目を引用した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「古代から鎌倉時代末ころまでは海上における盗賊行為またはその勢力を、南北朝から戦国時代にかけては海軍力を有する豪族を指すことが多い。海賊が国史をにぎわすのは九世紀のころからで、北九州・瀬戸内海方面を主要舞台とした。かれらは群をなして往還の諸人の殺害、公私の財物の掠奪、放火などを行い、移動性・隠匿性にすぐれて追捕に困難であった。律令政府は諸国に命じて追捕・摘発にあたらせ、または中央から征討使を派遣した。征討使の中には承平六年（九三六）南海海賊追捕に任ぜられた紀淑人のごとく寛仁の施策により賊徒の多くを正業につけ郡国復興した例もある。この事例は当時の海賊の発生事情を示すものであろう。十世紀中葉、天下を震撼させた藤原純友の乱（天慶の乱）は瀬戸内海の海賊勢力を糾合した最も大規模な叛乱であった。律令制弛緩の過程には海賊はあとを絶たず、中央政府は取締りに苦慮したが、平氏は正盛以来瀬戸内海の海賊追討に功をたて、沿海の地方豪族を従えて西海に勢力基盤を築いた。海賊発生の温床が平氏権力に組み込まれたものと評価できよう。鎌倉時代中期ころまでは鎌倉幕府の威令が確立し海賊の発生は少なかった。幕府は守護・地頭をして海賊の追捕にあたらせ、怠慢者の所職を改替する方針をとり、摂津国渡辺や讃岐の海賊追捕の実績もあげている。しかしその間にも海賊を放置ないし拘惜する者が生じ、さらに御家人の海賊化もみられ取締りは困難となった。幕府は浦々の船に在所・船主の名を彫り付けさせたり、所属浦の定紋を付けさせるなどの方法をとり、また御家人を動員して警固詰所に結番して海上警固にあたらせ、流罪をやめて斬罪とするなど、取締りの強化をはかった。しかし広範にみられる悪党勢力の伸長とその海賊行為ないし借上的収奪への参加など、社会変動を背景とした海賊の活発化をとどめることを得なかった。室町幕府も当初は前代同様の取締り方針をとったが、やがて沿海豪族の海上権を黙認し海上警固に利用するに至った。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＊２ジャパンナレッジの『国史大辞典』より「源為朝」の項目を引用した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一一三九－七〇　　　&lt;br /&gt;
平安時代後期の武将。源為義の八男、母は摂津国江口の遊女。保延五年（一一三九）に生まる。鎮西八郎と称す。『保元物語』に父為義の言として、「はるかの末子為朝冠者こそ、鎮西にてそたちたるものにて候が、弓矢をとりてもおそらくは父祖にもこえ、うちものとつてもたつしやに候。合戦のみちも能々心得たる奴にて候」とあり、幼時より剛勇の聞えが高かった。兄たちを兄ともしない荒武者であった為朝は十三歳の時に父為義によって鎮西に追放されたが、豊後国に住して阿蘇氏の婿となり、九州各地の武士を従えようとして転戦し、鎮西の惣追捕使を僭称した。訴えによって召喚を命じられたが応じなかったため、久寿元年（一一五四）十一月二十六日父為義は検非違使を解官され、翌年四月三日には、管内を騒擾させている為朝与力の禁遏を大宰府に命じた宣旨が出された。父の解官を知った為朝はわずかの手兵を率いて上洛したが、保元の乱に遭遇し、父に従って崇徳上皇方に加担した。父の推挙により合戦について献策し、内裏高松殿に夜襲をかけ、三方から火を放って一方から攻撃をかけることを主張したが、左大臣藤原頼長の反対で容れられず、白河殿の西門の防備にあたった。七月十一日未明に始まった合戦で為朝は寄手の平清盛軍を撃退したが、兄義朝軍による白河殿の焼打ちによって敗北し近江に走った。父為義らが処刑されたのちも近江の坂田辺に隠れ住んでいたが、八月二十六日に至り前兵衛尉源重貞の探索によって捕えられた。身柄は翌日京都に護送され、勅定によって検非違使源季実に引き渡され、陣に移された。後白河天皇も密かに為朝を覧じたという。重貞はその日のうちに別功賞として右衛門尉に任じられた。『保元物語』によると、公卿の僉議の結果、為朝はその武芸の才によって死を免ぜられ、伊豆大島に流された。その後為朝は近隣の島々を従えて租賦を奪い、島民に濫妨をはたらいたので、嘉応二年（一一七〇）に伊豆介工藤茂光が上洛してこれを訴え、朝廷では茂光に為朝の追討を命じ、茂光は兵を集めて攻めたため、為朝は大島で自害して果てたという。三十二歳。『尊卑分脈』には、「仍つて工藤介茂光に仰せ付けられ、追討せられ畢んぬ、首を京都に奉るの間、獄門の北陣に梟せられ畢んぬ、安元三三六討死」（原漢文）とあり、為朝の死を安元三年（治承元、一一七七）三月六日のこととしている。伝説によれば、為朝は大島を脱出して琉球にわたり、婦を娶って舜天王を生んだという。源為朝の子と称する舜天王は、文治三年（一一八七）に最初の王統を確立した。頼山陽の詩に「堂々たり源家第八郎、射は〓を凌ぐ可し猿臂長（中略）琉球の弾丸は吾が大羽箭に当たるに足らず、聊か弋取して死亡を救う、蛮酋女を納れて将種を留めんとし、羆熊夢に入りて啼くこと〓々たり、膂力は父に類す好身手、賊を誅して国を有つ真天王」とある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===漂流記より===&lt;br /&gt;
ここでは岩尾龍太郎氏の『江戸時代のロビンソン』より、江戸の人々と外国の関係について述べる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸時代の日本では、当然鎖国が行われていた。その中で外国へと漂流してしまった人々がいる。『江戸時代のロビンソン』を参照し作った年表を下に載せる。（）内には本書の該当部分を簡単にまとめた説明を載せている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１６４４年　『寛永漂流記』　　　（日本海から沿海州に漂着した越前三国船の記録。建国期の清について書かれている。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１７９８年　『南瓢記』　　　（安南への漂流記。ただし、夢の中の仙人の語りという形で書かれている。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１８１７年　『南海紀聞』　　　（筑前唐泊孫太郎の体験をまとめたもの。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１８４６年　『亜墨竹枝』　　　（メキシコへの漂流記。栄住丸の善助・初太郎の物語を井上黙がまとめたもの。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　本書によれば、開国前の漂流記はこの四点しかない。「幕末になると海外事情の出版は黙認されるようになった」とある。また、漂流した人物として有名なのは、大黒屋光太夫だろう。彼とその仲間は１７９２年に日本へ帰還するが、「小石川「薬草植付場」での「植場手伝ひ」を命ぜられ」とある。さらに外国の様子について話すことも禁じられている。江戸時代において、鎖国により外からの情報を受け付けないだけではなく、漂流者という内部からの情報すら閉め出されていたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==「島巡りもの」の意義==&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　第二章より、日本での地図の存在は、１８００年代の段階で庶民にも認知されていたのではないのだろうか。なぜなら、１７８７年には観光用の京都図が作られているからである。また、同時期に今回紹介した「島巡りもの」が刊行されている。ここから、地図の普及によって人々の世界が開けたと考えられる。ある程度正確な地図が世間に広がることで、彼らはより真実味を帯びた想像を膨らませることができた。これは戯作者にも読者にも共通のことだが、特に後者への影響が大きいだろう。読者は、戯作者の描きたい光景を、またはそれ以上のものを体感できるのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　日本にあった地図は京都・日本のものだけではなく、世界地図も含まれる。しかし、日本は鎖国をしていた。普及していたのは国内のものだけにせよ、世界地図というものがあることは知られていたはずである。今まで日本人にとっての異国は、アジアの近隣諸国だけであった。また、『江戸時代のロビンソン』より、外国の話をすることすら禁じられていた。知ってはいけないもの、想像もできない程遠い世界、という外国の姿を人々は様々に想像しただろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　つまり、「島巡りもの」には江戸の人々が持つ異国への憧れが表れていると言える。正確な地図によって人々の知識は増え、その目は外に向くようになる。中でも、国が頑なに見せようとしない外国とはどんなものか、彼らは興味をそそられたはずである。そこで、人々は思うがままの外の世界を描き、そこを自由に行き来する主人公を作り出し、「島巡りもの」として出版したのではないだろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==参考文献==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*木村八重子「赤本「義経島めぐり」をめぐって」（國文學：解釈と教材の研究　４４（１４）　１９９２．１２　１１６～１２５ページ）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*鈴木重三, 木村八重子編　『近世子どもの絵本集　江戸篇』　岩波書店　１９８５．７&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*寺島良安 ・著　島田勇雄,竹島淳夫,樋口元巳・訳注　東洋文庫　『和漢三才図会　３』　平凡社　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*日本古典籍総合目録データベース　http://base1.nijl.ac.jp/infolib/meta_pub/KTGSearch.cgi&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*岩尾龍太郎著　『江戸時代のロビンソン』　弦書房　２００６．１２&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*古井戸秀雄編　『歌舞伎登場人物事典』　白水社　２００６．５．１０&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*ジャパンナレッジ　http://www.jkn21.com/stdsearch/displaymain　２０１４．２．４&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
			&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>WikiSysop</name></author>
	</entry>
</feed>