ArcUP0458

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総合

恋合 端唄尽 瀬川 五京

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絵師: 三代目豊国

落款印章: 任好 豊国画(年玉枠)

改印: 申六改

出版年月日:万延元年(1860)六月

出版地: 江戸

画題: 「恋合 端唄尽」 「瀬川 五京」

上演年月日: 安政三年(1856)四月

上演場所: 江戸・中村座

配役:瀬川  三代目 岩井粂三郎    五京  八代目 片岡仁左衛門


【翻刻】

玉川の水にさらせしゆきのはだとけし しまだのもつれかみおもひださずにわすれづに 又くる春を待ぞえ 

雪の夜のつめたさに あれ小ざしきの二人りつれ たかひにぢらすあいことば ほつれかゝりしあらひがみ エヽモウ じれつたいかみやうじ

あきの夜なかにぬしにあふ夜のみじかさわ 月夜からすかなくわいな 月しごんせぬしら/\とあけのかね


【語彙】

玉川・・・東京都を流れる多摩川のこと。

島田・・・島田髷(島田結)。日本髪の代表的な髪型の一つ。江戸初期、東海道島田宿の遊女の髪型からこの名が広まった。形態は、女性埴輪人物像にも見られるほど簡単なものであったが、後世、前髪・びん・たぼをとるようになり、複雑化した。

かみやうじ(嚙楊枝)・・・楊枝を口にくわえること。飲食に満ち足りた様子や気どった様子にいう。

月夜・・・月の明るい夜。月の照りわたった夜。


【髪形】

玉簪・・・ビードロ・珊瑚・瑪瑙などの玉をつけた玉簪は、この頃から現代まで広く用いられている。

笄・・・元来は金属製や象牙製の、髪をかき上げるものであったが、笄で髪をとめる笄髷が生じてより実用品として更には髪飾りとして発達した。鼈甲製の斑のないものを最上とし、細長い長方形のものが多い。馬爪製の安価な代用品もある。

江戸では、寛政以降仏像の後光のように扇状に開いてさすのが特色。また、江戸では華や無紋の簪を計十二本さす。


【題材】

「一曲奏子宝曽我」・・・この演目は、安永七年(1778)出版田螺金魚「傾城買虎の巻」の趣向にそいながら、松葉屋瀬川を脚色している。


【あらすじ】

「傾城買虎の巻」・・・幸次郎お八重忍び逢ひより住馴し家を欠落し地震の甚八の世話になり幸次郎病ひに臥し夫の病気の為におやへ苦界へ身を沈め夫の病死の後五暁といふ者瀬川に通ひ瀬川五暁の種を懐妊す五暁は父より勘当の身となり武州玉川邉に寓居す此内に鳥山撿校瀬川を身請す瀬川鳥山の下部に頼みて此處を欠落して五暁の隠家へ尋ね来る道にて下男淫情にせまり瀬川を殺害す瀬川の亡魂産子を抱き来り夫五暁にわたし魂塊冥土へかへる(『続歌舞伎年代記』)


【登場人物】

瀬川(松葉屋瀬川)(お八重)・・・「一曲奏子宝曽我」では、「傾城買虎の巻」の松葉屋瀬川が脚色されている。モデルとなったのは、大岡越前守忠相の大岡政談に登場する松葉屋瀬川である。新吉原松葉屋二代目瀬川が夫の仇討を遂げたが、仇の片割れを取り逃してしまう。しかし奉行が捜索捕縛して首尾よく討たせてやるという話。


五京(五井屋京之助)(五卿)(五暁)・・・「一曲奏子宝曽我」「傾城買虎の巻」で名前の表記が異なるが、同一人物であると捉えるのが妥当である。


【配役】

瀬川・・・三代目岩井粂三郎 文政十二年十月二日(1829)~明治十五年二月十九日(1882)享年54歳

七代目岩井半四郎の子。母は四代目瀬川菊之丞の次女にあたる。初め子役として岩井久次郎と名乗り江戸の舞台に勤めていたが、天保三年(1832)三代目粂三郎と改める。この時、祖父の五代目半四郎が杜若を、また伯父の二代目粂三郎が六代目半四郎をそれぞれ名乗る。父は紫若と名乗って上方に巡業中だった。七年四月伯父の六代目半四郎が没す。弘化元年(1844)父が七代目半四郎を襲名する。翌二年四月父が没し、四年四月祖父が没す。文久三年(1863)十一月中村座で二代目紫若と改める。明治五年(1872)八代目半四郎を襲名する。明治七年六月中村座の座頭となる。大変な美貌で四代目市川小団次の相手を多くつとめ、艶姿を讃えられた。幕末の名女方の一人である。


五京・・・八代目片岡仁左衛門 文化七年(1810)~文久三年二月十五日(1863)享年54歳

初め市川新之助といい、大阪の子供芝居の座本にいた。また、三升岩五郎と改めたが後に二世璃寛の門に入り、嵐橘二郎といい、京阪の宮芝居で修業し、天保三年(十四歳)春、七世仁左衛門の養子となって我当と改め、同年九月初めて大阪へ出て、同年十一月京都に出て、好評を得た。これより濱芝居へ出でて色立役を専門としたが、天保八年、養父が病死し、その俳名我童を継いで芸名とした。安政元年(四十六歳)の春、初めて江戸へ下って中村座へ現れたが、その年、大阪で自殺した八世団十郎の面影にどことなく似ていると、世間で「八代目の綿入」ともてはやされ、これより俗衆に悦ばれた。四年正月、初めて仁左衛門の名を継ぎ、中村座の座頭となった。仁左衛門は男振りよく、舞台綺麗だったが、体格の小さいところと捨て台詞をあまりに多くいう癖とが欠点であった。天保十二年の「役者舞台扇」曰く、当時、大芝居で色気たっぷり、その上芸の仕出し上品にしてやわらかみがあり、仕内にうまみがある。すなわち、彼の本領は所謂「色立役」である。

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【まとめ】

この作品の五京の右手は、猪口を握っている。瀬川の衣装や髪型は、遊女の格好である。という二点から五京と瀬川が吉原で会っているということが推測される。このような場面が実際に演目の中に組み込まれている。右の画像は、『絵本番付』である。(芝居番付閲覧システムより)


『演劇脚本』(桜田治助 中西貞行 明29・3)から、この場面が「見通し大座敷の場」であると推測される。「見通し大座敷の場」は、瀬川に会いに部下を連れて吉原へやってきた五卿に、五卿を避けていた瀬川も会いにくるという場面。


猪口(ちょく)・・・酒をつぎ入れて飲む陶製や金属製の小さな器。ちょこ。


上から二代目国貞、三代目豊国、三代目豊国の作品である。(早稲田大学演劇博物館 浮世絵閲覧システムより) この三枚の作品に共通する事柄は、もみじの屏風が描かれていることである。同じもみじの屏風が描かれているということは、同じ部屋ということである。一番上の作品には、瀬川と五京が二人で部屋にいる。ということは、場所は吉原であると推測できる。前篇だけではあるけれど、「一曲奏子宝曽我」の脚本を読んでいった中で、吉原で瀬川と五京が二人きりになる場面は一つだけである。それは、「見通し大座敷の場」の続きの場面である。大座席からそれぞれ分かれていく中で、瀬川と五京も二人で部屋に向かうのである。それぞれが分かれて座敷にいる様子は、絵本番付にも描かれている。


参考文献

・『字典かな』笠間書院 2003・8

・『歌舞伎年表 第七巻』井原敏郎 岩波書店 昭和37・3

・『歌舞伎事典』実業之日本社 昭和47年・7

・『原色浮世絵大百科事典 第四巻』大修館書店 昭和56年・11

・『近世文芸研究叢書 第二期芸能篇 歌舞伎3 近世日本演劇史』井原敏郎 クレス出版 1997・4

・『近世日本演劇史』井原敏郎 早稲田大学出版部 大正2・6

・『歌舞伎人名事典』日外アソシエーツ株式会社 1988・9

・『歌舞伎細見』飯塚友一郎 第一書房 昭和2・12

・『日本国語辞典』小学館

・『演劇脚本』桜田治助 中西貞行 明29・3

・『傾城買虎の巻 上巻』田螺金魚 江島伊兵衛 明16・6

・『傾城買虎の巻 下巻』田螺金魚 江島伊兵衛 明16・6

・『続歌舞伎年代記』石塚豊芥子 廣谷國書刊行会 1925

・芝居番付閲覧システム http://www.dh-jac.net

・アートリサーチセンター http://www.arc.ritsumei.ac.jp

・早稲田大学演劇博物館 浮世絵閲覧システム http://www.enpaku.waseda.ac.jp