佐倉宗吾(さくらそうご)

 嘉永4年(1851)8月江戸中村座初演。三代目瀬川如皐作。本名題は「東山桜荘子(ひがしやまさくぞうし)」。下倉に伝わる佐倉宗五郎伝説は、講談で持てはやされており、それを歌舞伎化した異色の農民劇。

《あらすじ》下総佐倉一帯の農民は不作続きと、領主堀田上野介の苛政に苦しめられていた。佐倉の名主木内宗吾は、主だった農民たちとともに郡代や江戸藩邸へ減税を願い出るが、家老たちは却下する。農民たちは動揺し、一揆を起こしかねない。宗吾は単身将軍へ直訴する覚悟を決め、その前に妻子に別れを告げようと帰郷する。雪の中、我が家へ戻った宗吾は、直訴の罪が他に及ぶのをおそれ、妻を離縁し、妻子を安全な立場に置こうとする。だが、妻のおさんは宗吾と生死を共にする覚悟を変えない。宗吾は妻子に最後の別れを告げ、再び江戸に向かう。そして寛永寺に将軍が御成りの日に、直訴を決行。松平伊豆守の温情で、訴状は受け取られたが、堀田上野介はこれを怒り、宗吾はもとより、妻子もろとも磔の刑に処す。子供たちの助命を願っていた宗吾の伯父仏光寺光然は報せを聞いて、世を呪いながら印旛沼に入水する。これら非業の死を遂げた人々の怨霊が、上野介を悶死させ、堀田家を滅ぼす。

《愁嘆場》直訴決行を前に宗吾は、妻子と断腸の思いで別れを惜しむ。外に降る雪が哀れをさそう。この芝居の愁嘆場である。愁嘆場とは、作中の人物が悲劇的な離別、逆境、悲運、また誰かの犠牲的な行為などに対して悲嘆の涙を流し、観客もこれに応じて涙を流すような場面を言う。演劇において愁嘆場は、一曲の内のクライマックスを形成するものである。その場合、この芝居のように雪を用いたり、音楽を効果的に使い、役者の演技を助長する演出がなされる。もともと演劇用語の愁嘆場は、一般用語としても使われるようになっている。

《別れと雪》歌舞伎においての雪は、「哀」の場面でよく使われる。ひらひらと絶え間なく降る紙吹雪が、悲壮感を更にあおる。「佐倉宗吾」でも、宗吾と家族の間に雪は容赦なく降り、お互いの姿をみえなくさせる。それぞれの距離感、複雑な思いなどを効果的に観客に伝える演出である。