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仮名手本忠臣蔵成立史

事件の概要

元禄十四年(1701)三月十四日、江戸城内松の廊下において、播州赤穂の藩主・浅野内匠頭長矩が、高家筆頭の吉良上野介義央を刃傷に及ぶという事件が起きた。浅野内匠頭は切腹、家は断絶、城明渡しの上領地没収、しかし、吉良はお咎め無しという裁決が即日の内に下されてしまう。
五月に城明け渡しが済んだあと、家老・大石内蔵助良雄は、長矩の弟・浅野大学長広を立てて、お家再興の実現に奔走した。しかい願いは聞き入れられず、結局翌十五年(1702)七月の京都円山の会議において、吉良邸への討ち入りの方針が決定される。
そして同年十二月十四日、大石以下四十七人が本所吉良邸に討ち入り、首尾良く本懐を遂げた後、高輪泉岳寺に引き上げ、長矩の墓前に吉良の首級を奉げた。翌十六年(1703)の二月四日に浪士たちは切腹を命じられ、六日には遺子十九名の処分が言い渡されている。
その後、宝永六年(1709)一月に五代将軍綱吉が没し、法要が七月に行なわれた。その際の大赦によって、大学や赤穂義士の遺子たちの帰参を許され、宝永七年(1710)九月には浅野大学が安房国に知行を得て、旗本寄合衆の中に加えられることとなった。大石たちの浅野家再興への思いはこのような形で実現し、一連の事件は決着をみたのである。

 

刃傷・討入後の演劇化

殿中刃傷のあと、早くも元禄十五年(1702)三月には、江戸で「東山栄華舞台」が上演されたとか、同年十月の大坂竹本座「傾城八花形」が、第一段に殿中刃傷を仕組んで赤穂事件をあつかったなどと言われている。また、元禄十六年(1703)正月に江戸山村座で上演された「傾城阿佐間曽我」は、大詰に集団の討ち入りを仕組んでおり、同時期に京都早雲座で上演された近松門左衛門作「傾城三の車」が、敵討の苦心や討ち入りの場面を取り入れるなど、討ち入り事件を扱ったものもあった。しかしこれらは、幕府から上演の差し止められたとも言う。
浅野家が再興し、一連の事件が解決する宝永七年(1710)まで、幕府は事件の全貌を戯曲や小説に取り上げることを認めなかった。それゆえ、事件に関連した作品を上演することは、お膝元の江戸では極めて慎重であった。一方の上方では、事件の話題性が失われないうちに義士劇を上演して当りを取ろうとした座本の思惑もあり、敵討物に刃傷や討ち入りをはめ込むという苦肉の策で上演を実現したこともある。

 

事件落着以後の義士劇ブーム

一連の事件が決着した後は、幕府も事件の全貌を戯曲や小説にすることを黙認したためか、赤穂事件を題材とする作品が次々と発表された。歌舞伎では宝永七年(1710)六月に、「小栗判官」の世界を元にした「鬼鹿毛無佐志鐙」が大坂で上演される。早速、人形浄瑠璃でも近松門左衛門作「碁盤太平記」と紀海音作「鬼鹿毛無佐志鐙」が出て競演の形となった。「碁盤太平記」は、「太平記」の世界を借り、吉良を高師直、浅野を塩谷判官とし、大星由良之助の役名を登場させるなど、「仮名手本忠臣蔵」に大きな影響をあたえている。小説の世界でも、江島其磧「傾城伝授紙子」や、「忠義武道播磨石」などが続けざまに上梓された。
宝永七年(1710)から正徳年間(1711〜1716)のブームが終った享保以後も、浪士の討入りは義挙として庶民に歓迎され続けた。そのため、演劇の世界でも途絶えることなく取り上げられて、先行作品を取り込みながら趣向の巧妙さを競って新作が作られている。享保十七年(1732)の並木宗助(千柳)らによる浄瑠璃「忠臣金短冊」では、世界を「小栗判官」の世界を借りているが、勘平夫婦の苦哀、由良之助の島原での放蕩、山崎の別れなど「仮名手本忠臣蔵」に受け継がれた趣向が多くある。また、享保二十年(1735)三月に江戸中村座で「鎧桜故郷錦」を作り、大岸宮内を演じた初代沢村宗十郎は、「仮名手本忠臣蔵」上演の一年前、延享四年(1747)京都布袋屋座の「大矢数四十七本」で大岸の役を演じて、祇園町で遊興する姿が大当たりをとった。この演技が「仮名手本忠臣蔵」七段目に取入れられたと言われている。

 

「仮名手本忠臣蔵」の誕生

刃傷事件から四十七年後の寛延元年(1748)八月、大坂竹本座において人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」が初演を迎える。二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の浄瑠璃全盛期を担った作者たちの手により、多くの先行作品を集大成する形で書上げられた。途中、太夫の入れ替えなどの混乱がおきているにも関わらず、その興行は実に四ヶ月におよぶ大当りとなった。そのため「仮名手本忠臣蔵」は、すぐさま歌舞伎にも取り入れられ、その年の十二月から大坂嵐座、翌寛延二年(1749)三月には京都早雲座において上演されている。江戸でも同年二月に森田座、五月には中村座・市村座と、三座揃って「仮名手本忠臣蔵」を出し、三都の劇場は「忠臣蔵」一色に染まったのである。翌寛延三年(1750)には早くも書き替え狂言が登場し、七月に中村座で「仮名手本四十七文字」が上演された。
以降、「仮名手本忠臣蔵」は、一旦上演回数が減る時期があるものの、宝暦末年(1763)から再び上昇に転じ、ほとんど毎年のように上演されるようになった。その過程で、多くの役者によって様々な創意工夫が加えられ、独参湯(起死回生の妙薬)と称せられるほど、日本で最も人気の高い演目に成長したのである。
仮名手本四十七文字
かなでほんしじゅうしちもじ

大判墨摺1枚
寛延3年(1750)7月15日中村座
「風折小町十二番続」第三番目

浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」が初演された次の年、早速、各地で「仮名手本忠臣蔵」が歌舞伎に取り入れられ、多くの劇場が競うように上演した。江戸でも、2月に森田座、それを追いかけて5月に中村・市村座が「忠臣蔵」を出し、三座競演という前代未聞の活況となった。翌寛延三年(1750)には、中村座で「仮名手本忠臣蔵」を書き替えた狂言が早くも出現した。ある事物を忠臣蔵の各段に見立てる「見立忠臣蔵」が成立するためには、庶民の間に忠臣蔵の内容が浸透している必要があるが、書き替え狂言においても、その時点で原作が常識として周知されていなければならない。「忠臣蔵」は初演から二年足らずで、すでに見立てられるべき世界として、その地位を確立していたことがうかがえる。
 なお、本番付は、その時の辻番付であり、現存品は世界で当館所蔵品の一枚のみである。
再板 仮名手本忠臣蔵
さいはん かなでほんちゅうしんぐら

(2)竹田出雲、三好松洛、並木千柳 作
嘉永3(1850)年

shiBK02-0037

浄瑠璃本のうち、本書のように作品全段の詞章を収めたものを、一段や一場のみの詞章を抜き出した「抜き本」に対して「丸本」と呼ぶ。丸本は興行に合わせて刊行されたり、稽古に用いられた他、読み物としても享受された。丸本の中にも七行本や十行本などの種類があるが、本書はその内の七行本。七行本は十行本や、抜き本などの基となるテキストであり、浄瑠璃本の根幹として位置づけられる。なお七行本「仮名手本忠臣蔵」の初版本(寛延元年刊)は稀覯であり、展示品も内題に明記するとおり再版本である。徐々に新作浄瑠璃が生まれなくなる中で、浄瑠璃本は稽古用として、読み物として、なおもその人気を保ち続けた。