京都映像文化デジタル・アーカイヴ マキノ・プロジェクト

 

『日出新聞』に見る1913−1917年新京極映画館街の出来事

 

マキノ・プロジェクトTOPへ

*映画館プログラムは立命館大学国際平和ミュージアム所蔵

 

 

○映画館観客動員数ベスト3

1913年 正月 
1位歌舞伎座、2位三友倶楽部、3位パテー館

1914年 7月14-16日
1位パテー館、2位帝国館、3位三友倶楽部

1916年 3月28日
1位歌舞伎座、2位京都座、3位帝国館
1916年 7月28日
1位京都座、2位帝国館、3位歌舞伎座

1917年 正月
1位帝国館、 2位パテー館、 3位三友劇場

1917年11月帝国館プログラム


○人気映画館の特徴

○歌舞伎座
(1892〜2001、「歌舞伎座」1900〜1936)

1913年 10月に上映の『百合子』が人気。同時期に他2館でも上映。
1913年『百合子』上映時のプログラム
 

 

 

 日活から松竹・東洋に契約変更、内部修理も行う。
 新たに桟敷を設け、一等席への利便を図る。

1917年 外観を洋館風に改め再開場

○京都座
(1891〜1963、「京都座」1911〜1963)

1914年 連鎖劇「柵」が人気で、他館でも公演される。
 客席を全て椅子席にし、連鎖劇専門に変わる。
 ボヤ騒ぎの責任をとって、その当日は休業。

1915年プログラム

○朝日倶楽部
(1894〜1988、「朝日倶楽部」1914〜1917) 1914年 4月末から8月の間のみ、主任弁士・西郷了堂にちなみ西郷館と改称。
1914年西郷館プログラム

1917年 竹豊座と改称し、人形浄瑠璃の興行専門となる。

○三友倶楽部(1911〜1915、「三友劇場」1916〜1945、現在の「京極東宝」)

1913年 天然色写真が上映され好況。 1915年 舞台東北部より出火し、隣接の大正座他にも延焼する大火。
1915年8月21日記事 日出新聞掲載 三友倶楽部から大正座に燃え移らんとするところ
   




1916年 12月31日三友劇場として開館。
 改装後再開場するが、事務手続のトラブルで劇場明渡しの危機に直面する。

○各年の特徴

1913年 日活横田商会の勢力に押され、松竹は1年契約で興行館9館の営業を日活に貸与する。日活の弁士が待遇改善を求めストライキを起こす。有栖川宮殿下薨去のため興行館は休場となる。

1914年 活動写真館の詰込主義が問題として大きく扱われ、作品の人気に加えて座席の快適さなどもが入場客数に影響を与えるようになる。

1915年  活動写真向けに設備を整える興行館が出る一方、常設館であっても演劇の余興を入れるなど、各館の商戦が激化する。

1916年  観客獲得のために内容の刺激性を追求するあまり、官憲による指導・検閲の強化を招くことになる。

1917年 帝国教育会が児童への悪影響を理由に「活動写真取締建議案」を作成した事を受け、従来活動写真館において警察が行うフィルムの検閲が、府庁でも実施される事となる。

Copyright(C) 2003 Makino Project All Rights Reserved.