足利義政のソースを表示
←
足利義政
ナビゲーションに移動
検索に移動
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
この操作は、以下のグループに属する利用者のみが実行できます:
登録利用者
。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
あしかがよしまさ ---- =画題= ===画像(Open)=== *[http://www.dh-jac.net/db/nishikie/results.php?enter=portal&f85=足利義政&-format=resultsp.htm&-max=50&f9=*&f11=1 ARC浮世絵検索システム] *[http://ukiyo-e.org/search?q=足利義政 Ukiyo-e.org] *[http://www.britishmuseum.org/research/collection_online/search.aspx?searchText=足利義政 大英博物館Collection_Online] *[http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/search?q=足利義政 東京国立博物館] *[http://bunka.nii.ac.jp/heritages/search/freetext:足利義政 文化遺産オンラインDB] *[https://www.google.co.jp/search?q=足利義政 Google_Search] *[http://ci.nii.ac.jp/search?q=足利義政 CiNii論文検索] *[http://ci.nii.ac.jp/books/search?advanced=false&l=ja&q=足利義政 CiNii図書検索] ===解説=== ===画題辞典=== 足利義政は足利八代の将軍なり。将軍義教の二男にして永享八年生る、小字三寅、後義成といい、更に義政と改む、宝徳元年征夷大将軍となり、享徳二年従一位に叙せられ源氏長者となる。己にして義政年四十を超えて子なく、弟義視の是より先、僧となれるを還俗せしめて嗣とせしが、後夫人富子の男義尚を挙ぐるに及びて、夫人は之を立てゝ義視を廃せんと図る。是に於て義視細川勝元に拠り、義尚山名持豊に託し、互に抗衝の結果、遂に応仁の大乱となり、京都大半兵燹に罹るに至る。義政職を義尚に譲りて後、文明十五年東求堂を東山に作り、縷刻するに金銀を以てす、時人之を銀閣という。義政之に遷りて日に茶宴を設け、古器丹青を玩弄す、数寄の盛なる此時を第一とし、世に之を東山(ひがしやま)時代という。延徳二年正月七日年五十七を以て薨ず、慈照院と称して太政大臣を贈らる。 足利義政画像(京都若宮八阪神社)、 同(土佐光信筆)(東京帝室博物館所蔵) (『画題辞典』斎藤隆三) [[category:画題|あ]] ===東洋画題綜覧=== 足利義政、幼名三寅、後義成といひ義政と改む、法名慈照院喜山道慶と号す、義教の二男で足利八代の将軍、嘉吉三年将軍義勝薨ずるや嗣が無いので、管領畠山持国、諸将と相議し、迎へて嗣となす、文安三年従五位下に叙し、又勅によつて名を義成と呼んだ、翌年正五位下となり、宝徳元年には征夷大将軍に任ぜられ、参議を兼ね左中将となり、従四位に叙せられ、二年権大納言に転じ、従二位に累進した、享徳二年従一位となり、名を義政と改めた、義政齢不惑に達するも子がないので、弟義視の入道して義尋と号してゐるのを還俗せしめ、たとへ将来子を挙げても、これを仏門に帰せしめるといふ誓を立てゝ義視を嗣とした、幾何もなく夫人富子が男子を生み、義尚と命じた、夫人義尚を僧となすに忍びずこれを山名宗全に托して、義視を廃し、これを立てやうと計つた、これが延いて応仁の乱となり京都を紛乱の巷に帰せしめた、結局義尚を継嗣とし、文明五年、将軍の職を義尚に譲り、十五年東求堂を東山に作り、金銀を以てこれを装飾した、時人これを銀閣と呼び、北山の金閣に比す、延徳元年義尚薨ずるに及び、再び政を聴き、二年正月七日薨ず、年五十六、太政大臣を贈られた。 (国史大辞典) 足利義政像として伝へらるるもの左の通り。 筆者不明 京都若宮八幡宮蔵 土佐光信筆 帝室博物館蔵 (『東洋画題綜覧』金井紫雲) [[category:画題|あ]]
足利義政
に戻る。
案内メニュー
個人用ツール
ログイン
名前空間
ページ
議論
日本語
表示
閲覧
ソースを閲覧
履歴表示
その他
検索
案内
メインページ
最近の更新
おまかせ表示
MediaWikiについてのヘルプ
ツール
リンク元
関連ページの更新状況
特別ページ
ページ情報