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にちれんしょうにん ---- =画題= ===画像(Open)=== *[http://www.dh-jac.net/db/nishikie/results.php?enter=portal&f85=日蓮上人&-format=resultsp.htm&-max=50&f9=*&f11=1 ARC浮世絵検索システム] *[http://ukiyo-e.org/search?q=日蓮上人 Ukiyo-e.org] *[http://www.britishmuseum.org/research/collection_online/search.aspx?searchText=日蓮上人 大英博物館Collection_Online] *[http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/search?q=日蓮上人 東京国立博物館] *[http://bunka.nii.ac.jp/heritages/search/freetext:日蓮上人 文化遺産オンラインDB] *[https://www.google.co.jp/search?q=日蓮上人 Google_Search] *[http://ci.nii.ac.jp/search?q=日蓮上人 CiNii論文検索] *[http://ci.nii.ac.jp/books/search?advanced=false&l=ja&q=日蓮上人 CiNii図書検索] ===解説=== (分類:物語) ===画題辞典=== 日蓮は日蓮宗の宗祖なり、貞応元年二月安房国小湊浦に生る、父に貫名重忠、十二歳清澄山に登りて僧道善に師事し十八歳薙髪して蓮長といい真言宗を學ぶ、歳二十餘にして鎌倉に出で更に叡山に登り、三塔の碩學を歴訪して台密を極め、建長五年再び安房に帰り、清澄山に登りて始めて旭日に対して妙法蓮華経を唱へ、又法席を張りて浄土真言禅律の諸宗を罵り、四個格言を説く、竟に邑主東城景信及其師道善に逐はれ、去つて鎌倉に赴き松葉ケ谷に庵室を結び、日夕法華経を讀誦し、又街巷に出て通行の男女に法華経の功徳を説きその帰依を促す、辻説法是なり、尋いで立正安国論を著はし、浄土念仏を詆誹し、之を停むるにあらざれば七難三災併起し他国迫逼の難亦来るべしと警戒して幕府に奉る、之を以て幕府の忌憚に触れ、伊東に流さる、已にして赦されて再び鎌倉に帰るや、意気益々壮烈、信仰益々堅固、圧迫頻りにして更に屈せず、文永五年蒙古襲来の警報伝はるや、幕府に上書し法華経に依らずんば国家の鎮護危しと論じ、各宗を誹謗して暴慢甚だしく、時に狂暴に亙るものあり、それが為めに遂に再び佐渡に配流せらる、実に文永八年にして年五十なり、十一年赦されて三たび鎌倉に入る、比企能本妙本寺を開きて之を請す、尋いて甲斐身延山に入り久遠寺を営みて一宗弘通の道場となし、晩年池上本門寺に遷り、弘安六年十月十三日六十一歳を以て寂す、日蓮為人勇猛強直、信仰極めて熱烈にして一代を通じて奇跡亦甚だ多し、清澄山の題目、鎌倉に於ける[[辻説法]]、[[龍のロ法難]]、[[波題目]]など古来画題として筆に上りたるもの甚だ多し、各其条を参照すべし、 日蓮像を画けるもの、身延山に伝春日行秀筆というものあり、京都実相院に岸駒の筆に成るものあり、然れども伊豆妙法華寺所蔵正御影と称する説法の相を描けるもの風貌最も其真を得たるものゝ如く、国宝なり。 (『画題辞典』斎藤隆三) [[category:画題|に]] ===東洋画題綜覧=== 日蓮上人、俗姓は貫名氏、幼名薬王丸、薙髪して蓮長といひ、後ち日蓮と改む、重忠の子、母は清原氏、日蓮宗の宗祖である、貞応元年二月十六日安房国長狭郡小湊浦に生る、十二歳の時、同国清澄山に登り、僧道善に師事し十八歳出家して真言宗を学び、二十余歳にして『戒体即身成仏義』を著し後鎌倉に出で偶々延暦寺の尊海に逢ひ相伴つて叡山に登り、三塔の諸学匠を歴訊し講習十余年に亘り、大和紀伊摂津の諸寺を巡廻し聖一国師、道元禅師にも会したといふ、建長五年安房に帰つて再び清澄山寺に投じ、同年四月同寺に於て法席を張り大衆の前で浄禅密律の諸宗を罵り、始めて四箇の格言を説いた、日蓮が本門の妙法蓮諦を弘通し日蓮宗を唱へたのは全く茲にはじまる、是が為め其師道善、並に邑主東条景信に逐はれ五月鎌倉に赴き、松葉ケ谷に草庵を結び、日夕法華経を読誦し、時に出でて街頭に立ち、法華の題目を高唱し其の功徳を説いて通行の男女を勧誘した、かくて漸次其の感化を蒙るもの多く日昭、日朗の如きも亦当時門下に帰した、一方『守護国家論』『災難対治鈔』を著し、尋で『立正安国論』を書いた、蓋し正元正嘉の際、連天災あつて五穀実らず、諸国の民多く飢餓に迫つたので日蓮は之等の災害を以て、一に浄土宗其他諸宗の弘伝に因る者となし『守護国家論』に盛に之を唱道し、安国論に至つて専ら浄土の念仏を攻撃し之を停止するならば薬師大師大集諸経諸説の所謂七難三災は悉く併起し、地国逼迫の難遠からずして到らうと極論した、文応元年此書を幕府に上るや、徒らに世を惑はすものとなし、捕へて伊東に配流された。三年十一月赦されて鎌倉に帰るや意気益々壮、文永七年小湊に老母を見舞ひ、又邑主景信等に小松原で迫害され、弟子鏡忍は死し、日蓮亦創を蒙つて鎌倉に還つた、而して日蓮の信仰は一難来る毎に強まり文永五年会々蒙古襲来の報鎌倉に伝へらるゝに及び、安国諭の懺言違はなかつた事を唱へ幕府に上書し法華経の功徳なくして国家を鎮護の不可能な事を説き自ら蒙古降伏の祈祷に当らんとし、且つ書を建長、極楽寿福寺十一ケ寺に送る、其の文字極めて不遜、然も幕府は上書を斥け、諸寺の長老皆之を顧みぬので日蓮益々憤激怒号し、言行時々狂に類する事さへあつた、是に於て幕府は再び日蓮を捕へて佐渡に流した、実に文永八年日蓮五十の時である、佐渡の配流は其一生に一段階をなし、これより頗る摂門開顕の態度を取つたが十一年赦免されて鎌倉に帰り比企能本、妙本寺を開いて之を請じた、幾もなく寺を日昭に譲り波木井実長の請に応じ甲斐に赴き身延山中に久遠寺を営み法華経弘通の道場とした四方の弟子門徒相伝へて雲集し法席に参するもの日に多きを加ふ、弘安六年の秋偶々疾に罹り、自ら思ふ処ありとなし諸弟子に扶けられて武蔵国池上の本門寺に遷り十月三日入寂した、年六十、遺言に依つて身延山に葬つた。 (国史大辞典) 日蓮の生涯は波瀾重畳、[[旭の森]]の題目、[[辻説法]]、松葉ケ谷の[[法難]]、竜の口([[竜口]])の危機等、画かるゝ処極めて多く、又世に日蓮像として伝ヘらるゝもの左の諸作がある。 伝春日行秀筆日蓮像 身延山久遠寺蔵 岸駒筆 京都実相院蔵 正御影(国宝) 伊豆妙法華寺蔵 (『東洋画題綜覧』金井紫雲) [[category:画題|に]]
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