●せっしょうせき(殺生石)

 玄翁という修行者が奥州より都へ行く途中、下野国那須野ヶ原へやってくる。空を飛ぶ鳥が石の上で落ちるので、不思議に思っていると、里の女が現れ、この石は恐ろしい「殺生石」と呼ばれる石で、生き物を殺してしまうから、近づかないように忠告する。
 玄翁がわけを尋ねると、昔、鳥羽院に仕えていた玉藻の前という方が、王道を亡ぼそうとして天子を病気にしたが、化生のものであると見破られ、逃げてここにたどり着き、この場所で殺されたのであると語る。そして、自分は、その石魂(いしだま)であると明かし、夜になったら本性を現すであろうといって、石の中にかくれてしまう。
<中入>
玄翁が供養していると、殺生石は二つに割れて、野干が現れ出る。自分は、天竺・中国・日本を股にかけて悪事をはたらいた老狐であり、安倍泰成の祈祷に調伏せられて空を飛んで那須野に隠れ住んだが、その後も、三浦介や上総介に那須野を狩り尽さされ、ついには射伏せられて、命を失ったものである。
その後も、多年にわたり、人を殺してきたが、今回、有難い供養を受けたので、今後はけっして悪事は働かないと約束して、消え失せる。

●生田敦盛(いくたあつもり)

黒谷の法然上人が賀茂のへ参詣のした帰途のこと、下り松の下で美しい男の捨子を見つけて拾って帰った。十余歳に成長したころ、説法の後にこのことを聴衆の前で話すと、若い女が走り出て、自分がその子の母であり、その子の父は平敦盛であると名乗った。
その子は、賀茂明神へ参詣して父との対面を祈ると、生田の森へ行けとの霊夢を蒙った。生田き、日が暮れたので、ある庵に宿を借りようとすると、甲冑姿の敦盛の霊が現れる。敦盛は、一の谷での物語をして、親子の対面を喜び、舞を舞う。そこへ閻魔王からの迎い、修羅の敵も現れる。敦盛は修羅道の苦患を受けるが、やがて暁になり、霊の回向を頼み、消え失せるのであった。

●つるかめ(鶴亀)

新春、中国の王宮では、多くの臣が皇帝の前に集まり、節会が開かれている。官人が口開きをして、荘重な囃子で皇帝が現れる。臣下がめでたさを讃えると、鶴と亀が現れて、皇帝に長寿を奉げる。皇帝は御感のあまり自ら舞を舞い、輿に乗って長正殿に還御する。

●舎利(しやり)

出雲の国の僧が都の仏閣を一見しようと都にやってくる。唐渡りの十六羅漢や仏舎利を拝むために、東山の泉涌寺に来た。寺男の案内で、僧が仏舎利を拝み感涙にむせていると、里人がきて、一緒に拝み、
泉涌寺を見ると釈迦在世にあったような心地がすると仏舎利のいわれを語る。そのうち、空かき曇り、稲妻が走る。そして、里人の顔は鬼と化して、自分は、昔舎利を望んだ足疾鬼(そくしっき)の執心であるとかたる。牙舎利を奪い、天井を手破って、飛び去るのであった。
(中入)
僧は、寺男から韋駄天のことを聞いて、二人で祈ると韋駄天が現れ、足疾鬼を天上界まで追いかけ、もとの下界に追いつめ、舎利を取り返すのであった。

●安宅(あたか)

頼朝と不和になった義経は、奥羽の重衡を頼んで都を落ちることにする。探索の目を逃れるため、義経一行は山伏姿で関にかかる。山伏は通すまじと関守の富樫がいきごむが、弁慶は、持ち合わせた巻物を勧進帳と称して朗々と読み上げ、信用されたかに見えた。

強力に仕立てた義経が怪しまれ、厳しく問いただされるに、弁慶は義経を杖で打ち、なんとか押し切ろうとする。富樫は、それをみて弁慶一同の苦衷を察し、通してやるのだった。

富樫は、一行に酒を振る舞い、弁慶が一差し舞い、その間に足早に関を後にするのであった。

●大会(だいえ)

比叡山のある僧正がお経を読んでいた。その庵を一人の客僧が訪ねてくる。命の助けていただいた御礼に来たというが、僧正は記憶にない。都東北院のあたりで、助けた鳶のことであると合点し、客僧が、僧正のお望みをなんでも叶えて差し上げたいというので、釈尊の霊鷲山での説法の有様をみて、拝みたいともらすと、客僧はそれを約束するが、決して「尊い」との気持ちを起こしてはいけないと念をおし、嵐の中に消える。
<中入り>
客層は実は大天狗であり、鳶になって飛び回っていたら東北院のあたりで蜘蛛の巣にふれて落下し、京童どもに殺されそうになっているところを、僧正に救われたのであった。
僧正のまわりは、金瑠璃の世界。仏の座の釈迦が説法をはじめた。僧正は、思わずも尊いと礼拝してしまう。
そのとき、帝釈天が怒りをなして天から下りてきて、釈迦に化けた天狗をさんざんに懲

●海士(あま)

藤原不比等(ふひと)の子、房前大臣(ふさざきのだいじん)は、讃岐国(さぬきのくに)の志度(しど)の浦で亡くなった母の追善のため、従者を連れて志度の浦へ下る。
そこへ一人の海人が、風流な慰みのない身を歎きつつ現れる。従者が海人に声を掛け、水に映る月を大臣が見るため海藻を刈るよう命じたことをきっかけに、海人は、志度の浦にまつわる以下の出来事を語る。
かつて、不比等の妹が唐の高宗に立后したため、唐から藤原家氏寺の興福寺に三つの宝が送られたが、運ぶ途中、宝のうち「面向不背の珠」と言われる珠が志度の沖で海中の竜宮に奪い取られた。珠を取り返すため藤原不比等が志度の浦へ来て一人の海人と契りを交わし、子を儲けた。今の房前大臣がその人である……。
自身の出生のいきさつを知った大臣が、思わず海人に名のり出ると、海人は、自分は不比等と契りを交わした海人の子孫だと言う。
その後従者のすすめで、海人は、その後の出来事を仕方話で語る。……不比等と契りを交わした海人が、生まれた子を不比等の跡継ぎにしてもらうという条件で、竜宮からの宝珠の奪還を決意する。海人は腰に縄を付け、剣を持って海中の竜宮に飛び入り、宝珠を奪い取る。竜宮での死人を避ける慣習を利用して、海人は竜たちが近寄れないように、乳の下を切り裂きそこに珠を押し入れてうつ伏した。海上で人々が縄を引くと、海人が瀕死の状態で引き上げられ、その乳の下の傷の中に、まさしく宝珠があった。海人は命を捨てて珠を奪い返したのだった……。そこまで語ると、海人は、実は自分こそその海人の幽霊だと明かし、房前大臣の母である証拠だという手紙を渡し、弔いを頼んで海中に消え去る。
その手紙には、自分が命を失ってから十三年経つと書かれており、年数の合致から先ほどの海人が自分の母の幽霊に違いないと確信した房前大臣は、当地の寺で読経の追善を行う。
すると、母は成仏し竜女の姿となって、法華経を手にして現れる。竜女は成仏を喜び、法華経をめでて舞を舞う。
その後、房前大臣の孝行によって追善を行った寺は、志度寺と名づけられ、毎年法華八講を催して朝晩法華経を読誦し、仏法の栄える霊地となった。

●敦盛(あつもり)

一の谷の合戦で若い平敦盛を手にかけた熊谷次郎直実は、悔いて出家し、敦盛の菩提を弔おうと、再び須磨一の谷を訪れる。
そこへ笛の音が聞こえ、草刈の男たちが現れる。草刈の身に似合わぬ風流なふるまいと声を掛けた蓮生に、男たちは、「樵歌牧笛」と昔から言うように笛は草刈にふさわしく、そればかりか歌も器楽も舞も、みな同じこの世の人の風流な業ではないかと反論する。
その後一人の男を除いて、他の者は帰っていく。残った男は、自分は敦盛の縁故の者なので十念を授けてほしいと言い、蓮生がそのとおりにすると、男は、実は自分はあなたが日夜弔っている敦盛だと明かして姿を消す。
(中入)
蓮生が夜通しの回向を思い立ち、念仏を称えていると、敦盛の霊が甲冑を身につけたうら若い姿で現れる。二人は、以前は敵であったが今は互いに成仏を願う友であることを確認し合う。
敦盛は蓮生を前に、平家一門の悲しい都落ちの様子や、一の谷の合戦前夜に敦盛たちが城で歌舞に興じたさまを語って舞を舞い(中ノ舞)、その後敦盛が味方の舟に乗り遅れ、一人で熊谷との討ち合いに臨んだいきさつを語る。語りながら修羅の気分の昂じた敦盛の霊は、時めぐって今また熊谷に出会ったと、蓮生にいったん討ちかかるが、それでも弔いを続ける蓮生の姿に、やはり二人は敵ではなかったのだと思い直し、重ねて回向を頼み、去っていく。