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2007年10月16日

第3回GCOE火曜セミナー(花田卓司)

「南北朝期の軍事関係文書からみた京都」

【報告要旨】
 第3回GCOE火曜セミナーの花田報告では、軍事関係文書を用い、南北朝期の京都について現在取り組んでいる研究の中間報告を行った。
幕府の軍事体制や制度を解明する素材として用いられてきた軍事関係文書には、意外に京都の地名情報が含まれている。本研究は、従来の京都研究には用いられなかった軍事関係文書に記された京都の地名情報を抽出することにより、南北朝内乱期の京都について、「戦争が行われる都市としての京都」という視点から分析を行うことを目的とする。またこれは、公家日記などの古記録に乏しいために京都の情報が少ないという南北朝期の史料的制約を克服しようという試みでもある。
今回の報告では、建武三年(1336)正月に起こった京都合戦に関連する軍事関係文書から、約80件の地名情報を収集し、『梅松論』や『太平記』に現れる地名情報とともに地図上に表示した。その結果、①軍事関係文書の活用が、南北朝期京都の研究に一定の有効性を持つこと、②古記録が乏しいという史料的制約を克服し、南北朝期京都の空間構造をより具体的・視覚的に示せること、③「戦争が行われる都市」という視点から、京都と周辺地域との連関を考察し、中世京都研究に新たな視点を提示できる可能性、④京都で起こる戦争について、時代を超えた比較検討が可能となること、といった諸点を指摘し得た。

【討論要旨】
 報告後、①南北朝期全体で、軍事関係文書に記される京都の地名情報はどれほどあるのか、②軍事関係文書から、例えば京都の被害状況などを読み取ることは可能か、という質問がなされた。①について報告者は、現在史料の収集中であり、概数は不明だがかなりの数に上ると予想していると回答し、②については、一部の史料に、「在家に火をかけた」などと記される例があるが、被害状況を読み取るにはやはり公家日記等が必要であると回答した。また、時間の幅を大きくしてマクロなデータを示すだけではなく、一日一日の戦闘に現れる地名をミクロにデータ化しても良いのではないか、という意見や、歴史学の史料を用いて明らかにし得る戦争が、軍記物語等でどのように表現されるのかという研究の方向性もあるのではないか、との意見も提示された。今後の課題として、現在収集している情報をデータベース化し、共有可能とすべきであるとの点が指摘され、討論を終えた。

発表の記録

 

コメント(6)

當山日出夫 : 2007年11月23日 12:30

花田さんの御発表に、誰もコメントをつけないのは寂しいので、私から、いささか。

1.用語の問題
「戦争」と「戦闘」を分けて考えた方がよいのでは。具体的な武力行使としての「戦闘」。それとは別に、「オレの言うことを聴け。でなければ、武力行使するぞ!」、という範囲までふくめての「戦争」。

このような「戦闘」「戦争」は、まさに近代になってからのものかもしれませんが・・・中世の日本の武士に、これがあてはまるかどうか、ということも重要なポイントであると思います。あるいは、中世史研究の方では、とっくに解決済みの問題なのかもしれません。

2.DHの視点から見たとき
(1).戦闘(あるいは、戦争)についての史料のDB化。
(2).既存の史料・資料のなかから、戦闘(戦争)にかんするデータをとりだす手法。データマイニング。このいずれの方向から、今後、アプローチしていくのか。

セミナーの御発表では、(1)の方向を主に考えておいでのように理解しました。(2)の方向であれば、例えば、『太平記』『平家物語』などは、国文学研究資料館の「日本古典文学大系DB」でテキストが、手に入ります。この程度の分量の文献なら、目で読んで探してDB化した方が確実です。しかし、しかし、DHにかかわる研究として進めるならば、ここから、もう一歩踏み込んだ「何か」がほしい。

その「何か」として、例えば、確実な史料に基づく史実としてのある戦闘が、文学作品では、どうえがかれるのか・・・その違いを、具体的に可視化して見る。その方法としてのGIS(時空間情報)も考えられるのでは、と考えます。

當山日出夫(とうやまひでお)

花田卓司 : 2007年11月26日 17:13

當山先生

御意見を下さり、どうもありがとうございます。お返事が遅くなり申し訳ありません。

1.「戦争」と「戦闘」について
確かにご指摘の通りだと思います。
私が用いた軍忠状をはじめとする軍事関係文書には「合戦」と記されますが、そこでは具体的な戦闘行為(どこで、誰に属して、誰と戦ったのか、自身の功績、自身の被害状況etc.)が記されております。自身の勲功に主眼を置いて軍忠状などが作成される性格上、上記の「どこで」という部分は現実的な武力行使の場となります。今回はそこから京都の地名・地点情報を取り出す報告でしたので、その意味では、「戦闘」という言葉が適切でした。

2.DHの視点から

まだ、最終的な方向性が明確化できていないことが課題でもありますが、京都を舞台にした(京都の地名情報を含む)戦闘に関する史料を中心に、(1)の方向性を考えております。軍事関係文書という、従来の京都研究にあまり用いられなかった史料が、京都研究にどこまで有効か、という点も主眼にあります。
ただ、(2)の方向性も重要だと考えておりますし、この点は、報告直後にも當山先生からご指摘頂いたと記憶しております。私自身も、史実としての戦闘が文学でどのように描かれるのかという点は面白く感じました。「京都での戦闘」という限定付きではありますが、(1)の方向性を主としつつ、史実と文学との対比といった点も今後考えてみたいと考えております。

御意見の回答たり得たか不安ですが、どうもありがとうございました。

當山日出夫 : 2007年11月28日 21:16

合戦と戦闘と、どう違うのでしょうか。DHからは、話題がそれますが、私としては、疑問に思うところでもあります。

近現代の戦争では、戦闘の単位集団・・・陸軍であれば、中隊とか小隊など、海軍であれば潜水艦とか艦隊など・・・の戦闘能力を維持できなくすること、これが、目的と言ってよいでしょう。逆にいえば、戦闘の単位集団は、その戦闘能力を維持することが、至上命題になる。

ゆえに、地雷という武器は、敵の兵士を殺すためのものではありません。負傷させるのが目的で作ってあります。一人を殺してしまえば、一人分の戦闘能力を奪うだけですが、重傷を負わせることができれば、その保護・介助のために、他の2~3名の人員が必要ですから、相手の戦闘能力をうばう意味では、より効果的です。

非情なようですが、現実には、そのように、近現代の戦争は、おこなわれてきました。これは、あくまでも、タテマエのはなし。実際には、現実の戦争には、様々な要素があることは言うまでもありません。

また、(旧日本軍と違って)アメリカの軍隊であれば、敵の捕虜になった味方を救出するのも、立派な、手柄になります。

では、日本の中世以前の「合戦」とは、いったい何を目的としていたのか。個々の武士の目的は、あるいは、その軍隊の指揮官(専門用語でどういうのでしょうか)の目的は、何か。

この意味では、史料に武勲として何が記されているのか、このDB化ができて、その歴史的変遷がたどれるようであると、とてもおもしろい。この種のDBの作成は、DHとして意味のあることだと思います。これが、史料のDBから、データマイニングできると、いいのだがなあ~、と思います。

京都は合戦の部隊となった土地である、ということは、花田さんの御発表でよくわかりました。でも、京都を、全部破壊してしまう、灰燼に帰するようなことをしてしまったら、もともこもない。いわゆる、応仁の乱の実際は、どうだったのでしょうか。(うむ、昔、高校生の歴史の時間に習った歌が思い出せない、どうも、いかん)。

當山日出夫(とうやまひでお)

花田卓司 : 2007年11月30日 18:46

當山先生

どうもありがとうございます。大変難しい御質問ばかりで、考え込んでおりました。現時点でお答えできる点を書かせて頂きます。

応仁の乱につきまして。
確かに、11年にも及んだ応仁の乱では、京都全域が「灰燼に帰した」イメージがありますが、実際にはそれほどでもなかったようです(もちろん大きな被害を受けたことは確かですが)。
確実な史料からは、乱が勃発した応仁元年(1467)こそ多くの地点が戦火に巻き込まれたことがわかりますが、応仁二年以後、被害は大幅に減り、乱の終結まで僅かな増減しかないようです(以上、足利健亮編『京都歴史アトラス』〈中央公論社、1994年〉、「応仁・文明の災」を参照)。同書には、甚大な戦火を蒙ったのは、東西両軍の本陣が所在し、戦場となった上京であり、下京はさほどの戦火を蒙っていない、とあります。
つまり、京都を壊滅させたかのように思える応仁・文明の乱でも、上京と下京では被害の差がありますし、時期的にも乱の初期を除けば、京都市街地が乱中常に戦火に巻き込まれ続けていたわけではないようです。

先生が高校の歴史で習った歌というのは「汝やしる都は野辺の夕雲雀あがるを見ても落つる涙は」でしょうか?

當山日出夫 : 2007年11月30日 20:55

そう、その歌です。ヒバリ・・・だけは覚えていたのですが、後が思い浮かばない。まだ、それほどの歳ではないつもりですが・・・

実は・・・と、言わなくても、おわかりでしょうが、私は、大学は、慶應義塾の出身です。で、学科は、違いますが、近い関係にある先輩に、藤本正行、という人がいます。藤本さんの本を読んだりということもあってか、あるいは、私は国文科ですから、『平家物語』や『今昔物語集』などを読んだり、ということもあって、武士の行動の目的とは? それが文学ではどう描かれるのか? というような方向に関心が向いてしまいます。

花田さんの御発表を聞いていて、思ったのは、合戦で人家が焼けた、と史料にある・・・ということは、そこに、人家があって人が住んでいた(少なくとも、家があった)ことになります。

この意味では、合戦の史料であると同時に、そこに家があったことの史料にもなるわけです。では、その家とは、どんな家だったのか。どんな人が住んでいたのか。中世の京都で、人の住む範囲は、いったいどんなふうだったのか。

中世京都の合戦の様相を史料からさぐることは、ある意味で、その時代の「常民」の生活をさぐることにも、つながるのでは・・・公家や武士や僧侶ではない人々、これを仮に「常民」とよぶならば、ですが。

このブログにいろいろ書いていて、どうも私の発言は、いろいろ飛躍があるかな・・・と思います。学生のときに勉強したのが、折口信夫につらなる民俗学の発想と、一方で、ガチガチの文献学。歴史学の方では、私が、先生と思っているのは、高瀬弘一郎先生(日本キリシタン史)。

當山日出夫(とうやまひでお)


藤本正行さんは、日本中世史の研究者。その代表的な業績は、かつて、足利尊氏とされてきた絵の人物を、そうではないと、論証した仕事でしょう。私の高校のときの歴史の教科書では、馬に乗った人物は、足利尊氏でした。でも、今の、我が家の子供たちの使った歴史の教科書では、そうではありません。

花田卓司 : 2007年12月 5日 20:47

當山先生

いつも貴重な御意見を下さり、どうもありがとうございます。

11月28日に先生が書き込まれたコメントとも関連しますが、「武士の行動の目的」が何かというのは、とてもおもしろいと思います。ですが同時に、(史料的な面も含めて)かなり難しい問題だとも思います。
合戦という場面に限定した上で、個々の武士の目的が何かと考えるならば、ありきたりの話ではありますが、一つはやはり家名と所領の保全のためではないでしょうか。

例えば、南北朝期には、敵方与同人(味方ではない者)の所領を没収して闕所地化し(持ち主のいない土地とみなすことです)、軍功のあった味方の武士に与える、という状況がよくみられます。つまり、北朝(幕府方)に属した場合、南朝によって所領を没収され、他人が自分の土地に入ってくる恐れがあるわけです。当然ながらその逆(南朝に属せば北朝(幕府)に没収される)もあります。
状況はもっと複雑ですが、簡単に説明すれば、戦時には以上のような事態が発生します。
このような状況下では、武士たちは否応なく南朝か北朝(幕府)かどちらかの陣営に属して戦闘に参加せざるを得なくなります。そしてその結果彼らが望んでいること(目的)は、自己の土地所有の正当性を保障してもらうことと、新たな所領の獲得であり、言い換えれば自己の権益の保全と拡大といえると思います。
それ故、自分の思ったようにいかない場合、南北両朝の間で離反と帰属を繰り返すという行動を起こすこともあります。
ちなみに、南北朝期の公家が書いた日記には、「近来武士所存皆如此。以資欲替其恥歟。(近来武士の所存かくの如し。資を以てその恥に替えんと欲するか。)」という記載があります(「如此」が指す内容は長くなるので省略します)。当時の武士を評した言葉として有名な史料です。

「民家が焼けた」という史料については、私もおもしろく思いました。このような記載がある軍事関係文書は見たことがありませんでした。その意味でも大変貴重な史料だと思いますし、京都という「都市」が戦場になったために現れた記載だと思います。他にもこのような史料があれば、と思いながら史料を探しております。

絵につきまして、近年刊行された本に掲載されている場合、「騎馬武者像」となっているようですね。佐藤進一氏の『南北朝の動乱』(中央公論社、1965年)でも、「足利尊氏画像」であったものが、2005年の新装版では「騎馬武者像」になっておりました。

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