Z0677-029

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総合

小倉擬百人一首 第29番 凡河内躬恒(おおこうちのみつね)

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翻刻:心あてに 折らぱや折らむ初霜の 置きまどはせる 白菊の花

   白菊丸ハ遠江国菊川駅にて落命ありし

   中納言藤原宗行卿の公達なり

   或日相州江の嶋児ヶ淵ハ此君に依る古跡なりとぞ

   然 是皆小説稗史に起る伝奇なり

                    柳下亭種員筆記

歌意:もし折るということならば心して折ることにしようか。初霜が、霜だか菊だか見分けにくいように、一面におりている中の白菊の花を。

絵師国芳

落款印章:一勇斎国芳画(芳桐印)

彫師: 彫竹

版元文字:伊場仙板

版元:伊場屋 仙三郎

改印:衣笠


余説:歌舞伎狂言、四世鶴屋南北作『桜姫東文章』七幕 文化十四年(十八、七)三月 江戸河原崎座初演。題材は文化四年頃、品川の遊女屋に京の中野中納言の息女と称する遊女がいて評判になったが、のちに偽者とわかり、追放されたという、巷間での話題をない交ぜに仕組んだもの。発端は、江ノ島児淵の場で、建長寺の自休と稚児白菊丸が心中したが自休が生き残る。次に新清水の場で、吉田家の息女桜姫に生まれ変わっていた白菊丸と、新清水の清玄となった自休とが再開する(序幕)という南北得意の出世話で、文化期の傑作である。国芳は、これを幻想的な風俗画に描き、本科の結句「白菊の花」による見立絵。

《引用》〔古典聚英9〕浮世絵擬百人一首 豊国・国芳・広重画 吉田幸一 笠間書院2002年


あらすじ 『桜姫東文章』建長寺の自休と稚児白菊丸は、江ノ島の児ヶ淵で身を投げて心中をはかったが、自休のみが死に損ねる。 その十七年後白菊丸は吉田家の息女桜姫に生まれ変わっていた。桜姫はその一年前に夜盗釣鐘権助に手篭めにされ、不義の子を産んでいた。一方新清水の清玄という高僧になっていた自休は、生まれつき開かなかった姫の右手を十念で開き、中から白菊丸と心中するときにお互いの名前を書いて誓いをした香箱の片割れが出てきたことで姫が白菊丸の生まれ変わりだと知る。そして清玄は、権助との不義の現場を発見された桜姫を救うため、破戒の罪をかぶって寺を追われた。 清玄は桜姫への煩悩を起こし、姫の子を抱いてその後を追う。途中弟子に毒殺されたりもするが、落雷によって蘇る。居合わせた桜姫に、清玄は白菊丸の因縁を語って、言い寄ったが、脅しに用いた出刃に喉を突かれて今度こそ死ぬ。しかしその怨念は亡霊となり、権助の頬に自分と同じ青あざををつけて、去ろうとした桜姫を引き戻した。 小塚原の千代倉へ権助の手によって女郎として売られた桜姫は、権助と同じ腕の彫り物の小さな釣鐘から風鈴お姫と呼ばれて評判になるが、清玄の幽霊が付きまとうため権助の元へかえされた。その桜姫の元へも清玄の幽霊が出現する。 酔って戻った権助の過去の思い出話から、権助が清玄の実弟で、昔自分の父と弟を殺害した敵と知り、桜姫は権助とわが子を殺したのだった。


絵解き 絵は白菊丸が着物のまま海に浸かって口には髑髏を咥え、頭上高く石碑を掲げている場面である。白菊丸を描いたその他の浮世絵についても、白菊丸は必ず髑髏を咥えるか、手に持っている。しかし、この小倉擬百人一首の白菊丸だけが、他と違う点は、彼が石碑を持ち上げているところにある。その他の白菊丸は、誰も石碑は持っておらず、手には髑髏か刀を持ち、自ら海を泳ぐのではなく怪魚か竜の背に乗っているのである。しかし、『桜姫東文章』における唯一の白菊丸の登場場面である発端の江ノ島の場面では、そのような場面はひとつもない。

"The Hundred Poets Compared"によれば、このような場面は文化十四年大阪中座で上映された『児淵恋白浪』において見られ、またこの作品の中にも白菊と言う名の少年が登場するために深い関係があるとされている。しかし、この『児淵恋白浪』は現在資料が残っておらず、確認することができなかった。 そこでどちらの物語においても下敷きとなったと考えられる『稚児が淵』に関する伝説について考えてみることにした。稚児が淵とは、稚児が身を投げて死んだという伝説の残る淵全般を指し、その中には江ノ島の稚児が淵に関する伝説も残っている。鎌倉の建長寺の自休和尚は弁財天に願掛けに行き、鎌倉相承院の白菊という美しい稚児に一目で心乱される。自休の恋慕の思いは止み難いものだったが、白菊には諾する色もない。自休和尚の思いを受け入れられず、思い悩んだ白菊は、或る夜江ノ島へ行き扇子を渡し守に託して「我を尋ねる人あらば見せよ」と言い遺し、江ノ島南岸の淵から身を投げた。そこへ自休和尚がやってきて、扇子を見ると、そこには次のような歌が二首書かれていた。 「白菊としのぶの里の人とはば思い入江の島と答えよ」「うき事を思い入江の島陰に捨つる命は波の下草」 白菊の最期を知った自休もまた「白菊の花の情けの深き海にともに入江の島ぞ嬉しき」と歌を残してその後を追った。それ以来、そこは稚児が淵と呼ばれているという伝説がある。 このような稚児が淵の伝説もまた、浮世絵における骸骨を咥えた白菊丸の明確な存在を教えてはくれなかった。しかし、『桜姫東文章』と『稚児が淵』伝説における大きなひとつの差異は発見することができた。それは、自休和尚の身の振り方である。これによって白菊丸の咥えている髑髏が誰のものなのかという問題を、心中相手であった自休和尚のものではないかと予想することができるからである。

『桜姫東文章』においては心中することができなかった自休和尚。しかし、『稚児が淵』の伝説では白菊亡き後を追っている。浮世絵における白菊丸が怪魚(竜)に跨っていたり、重たげな石碑を担いだまま荒れ狂う海を渡っているのは、描かれた白菊丸が既に普通の人間ではない可能性を示唆している。すると、身投げによって命を落とした白菊丸が、何らかの強い感情(怨みや恋慕など)によって怨霊か何かとして海に留まり、憎い相手もしくは恋しい相手であった自休和尚の髑髏にかじりついているという見方ができるようになる。これを『桜姫東文章』の白菊丸と自休でやろうとした場合、自休は死に切れず白菊丸の後を終えなかった為、白菊丸の咥えている髑髏は死んだ自分自身のものではないかと解釈する方が自然になってしまう。また白菊丸が担いでいる石碑を、稚児が淵にあるという白菊の稚児が淵伝説を刻んだ古跡であるという見方をすれば、この絵は『桜姫東文章』の一場面の想像図と言うよりは、『稚児が淵』伝説、または『児淵恋白浪』をイメージした絵ではないかと解釈することができる。


考察 心あてに 折らぱや折らむ初霜の 置きまどはせる 白菊の花 という29番の歌と白菊丸の絵との関連について、先行研究では以下の二点が提唱されている。

・本歌の結句「白菊の花」による見立絵

・初霜の中紛れる白菊を探すという行為と、自休が白菊丸の生まれ変わりを探すという行為をかけている

この二点はどちらも非常に尤もなものであり、反論などはない。特に二点目の考察は、単純に結句と白菊丸の名前を絡めたという理由にさらに深みを出すものに思われる。

私はこの二点を引き継ぐ形でさらに考察を発展させたいと思う。

「心あてに」には、よく注意してという解があり、その解に従った形の歌意として「もし折るということならば心して折ることにしようか。初霜が、霜だか菊だか見分けにくいように、一面におりている中の白菊の花を」というものがある。これを基本に考えてみると、もし白菊を手折るならば、心して手折ることが必要だという解釈ができる。これをそのまま白菊=白菊丸と考え、手折るということを手篭めにするもしくは懸想するという意で考えてみると、これを白菊丸に思いを寄せてそれ故に自殺へと追いやってしまったり、心中を約束しながら自分だけ死ぬことのできなかった自休への戒めのように捉えることができる。即ち、稚児という立場にある美少年白菊丸に手を出し、その若い命を手折ることをするのなら、手折る側にもそれ相応の覚悟が必要だ。心して摘めよ。というような意味に解釈できる。このようにこの和歌と浮世絵の繋ぎには、物語のように煩悩に負けて美しい稚児に手を出す者への皮肉も含まれていたのではないだろうか。 初霜を踏み砕いてしまうのが容易いように、また美しい花を無残に手折ることも容易いのである。


《参考文献》

〔古典聚英9〕『浮世絵擬百人一首 豊国・国芳・広重画』 吉田幸一 笠間書院 2002年

"The Hundred Poets Compared" A Print Series by Kuniyoshi/Hiroshige/and Kunisada 2007,Henk J. Herwig/ Joshua S. Mostow,Hotei Publishing

『百人一首-王朝和歌から中世和歌へ-』 井上宗雄 笠間書院 2004年

『百人一首註解』 乾安代 島津忠夫 和泉書院 1998年

『百人一首研究資料集 第二巻 注釈一』 吉海直人 クレス出版 2004年

『日本説話伝説大事典』 勉誠出版

『日本伝奇伝説大事典』 角川書店

『歌舞伎登場人物事典』 白水社 2006年

『南北名作事典』 藤野義雄 桜楓社 1993年

『歌舞伎事典』 平凡社 1983年

『鶴屋南北-滑稽を好みて、人を笑わすことを業とす-』 諏訪春雄 ミネルヴァ書房 2005年

『日本伝説研究』 藤沢衛彦 三笠書房 1935年

『桜姫東文章 歌舞伎オン・ステージ5』 廣末保 白水社 1990年