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012-0510 - 版の履歴
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<p><b>新規ページ</b></p><div>=総合=<br />
[[東海道五十三対]] 平塚 <br />
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[[画像:012-05101.jpg|thumb]]<br />
<br />
【翻刻】<br />
<br />
馬入川(はにふがは)は平塚宿の手前にあり 昔は相模川と唱(とな)ふ 甲州猿橋より流れて大河也と相伝ふ 建久九年十二月稲毛(いなげ)三郎 相模川に橋供養(くやう)をいとなむ 右大将頼朝公も行向ひ給ふ 此時水上に悪霊(あくりやう)出てくろくも舞(まひ)下り 雷電霹靂(らいてんへきれい)す 頼朝公の乗馬(じやうめ) 驚(おどろい)て水中に飛入て忽ち死す 故(ゆゑ)に馬入川と号るよし 俗説(ぞくせつ)に云伝ふ <br />
<br />
絵師:広重<br />
<br />
彫師:(彫工)房次郎<br />
<br />
版元:伊庭仙版<br />
----<br />
'''背景'''<br />
<br />
この絵は源頼朝の最後を描いている。伝承によれば記述の通り、源頼朝は橋供養の際、突然馬が暴れだして落馬し、意識不明となりそのまま亡くなってしまったようである。その馬は川に浮かんだ平家や源義経らの怨霊に驚いたのであるとも伝えられている。しかしその記述は『吾妻鏡』には見られない。(『吾妻鏡』には源頼朝の 死前後の建久七年から建久九年の記述が抜けている)『承久記』には頼朝の発病の理由として「水神ニ領セラレテ」という記述がある。同様のものが『保暦間記』でも見られる。よってこの伝承は、かなり古くから見られたと考えられる。<br />
<br />
''史実の[[稲毛三郎]]''<br />
<br />
『吾妻鏡』の中に稲毛三郎の出家のいきさつが描かれている。<br />
<br />
「建久六年 七月大 四日 丙戌 稲毛三郎重成が妻、武蔵国において他界す。日頃病悩し、しきりに鵲療(じゃくりょう)を加ふといへども、つひに風阿に侵されをはんぬ。重成別離の愁に耐へず、すこぶる勇敢の心に倦み、たちまちに出家を遂ぐと云々。」<br />
<br />
出家に対してより詳細な記述として『鎌倉・室町事典人名事典』には以下のように述べられている。<br />
<br />
「建久六年七月、北条時政の娘である妻が他界したために出家して道全と名乗った。建久九年十二月、亡妻の追福のために相模川の橋を修復した」<br />
<br />
<br />
''虚構の稲毛三郎''<br />
<br />
稲毛三郎は歌舞伎や浄瑠璃などにも登場する。源頼朝配下として登場するため、源義経などから対立する悪役であることがほとんどである。「比翼蝶春曽我菊」では箱王を詮議する役人として登場し、老母を人質に取る。「近江源氏先陣館」でも、頼家を裏切った黒幕として登場し、最後に滅ぼされる。<br />
<br />
また悪役としては俗世の姿ではなく、出家した後の入道姿での悪役が非常に多い。これは史実の謀殺と最期が反映されていると考えられる。具体例として時間的間隔があるが、歌舞伎では「御摂勧進帳」が考えられる。<br />
天保十年(1839年)にこれに着想を得た「海老藏の辨慶芋洗い」という場面が「其往古戀江戸染」で登場していることからもこの歌舞伎が長い間人気があったことを示している。この「御摂勧進帳」の中で稲毛三郎は悪役として登場する。そしてどちらかと言えば黒幕というよりも、義経の手下に追い回されたりやられたりする雑魚である。<br />
尚「歌舞伎登場人物辞典」には鯰坊主として稲毛入道の名前が挙がっている。「丸坊主に鯰の髭のようなもみ上げを付けている」のがその理由であり、半道敵である。同時にこの絵にある通りの髭を蓄えている。この部分は言わば稲毛入道のマークであると考えられる。<br />
浄瑠璃ではより年代の近い例として天保2年(1831年)の『古戦場鐘懸の松』と、弘化3年(1846年)の『軍術出口の柳』が考えられる。<br />
しかし『古戦場鐘懸の松』では稲毛三郎は要説に登場せず、『軍術出口の柳』ではやはり入道姿である。しかも、また将軍実朝を挿げ替えようとする悪人であり、正義の味方に投げ飛ばされる。<br />
以上の例からは、歌舞伎、浄瑠璃には稲毛三郎の具体的なモデルは少なくとも見つけることが出来なかった。従って具体的なモデルは存在しない、武者絵であると考えられる。<br />
<br />
<br />
<br />
''[[馬入川]]''<br />
<br />
『街道物語 東海道』によれば、頼朝が落馬した不吉を避け、実朝の時代から明治までこの馬入橋には橋が架からなかったという記述もある。<br />
<br />
『日本歴史地名体系』ではこの馬入川の渡しに近隣の村の船頭が行っていたという記述もある。<br />
<br />
''東海道名所記・名所図絵における馬入川''<br />
<br />
東海道名所記では以下記述がある。<br />
「ばにうの渡し、御上洛には、船橋かヽる也」<br />
<br />
<br />
東海道名所図絵にも以下のような記述がある。これを基にして、この浮世絵の文章が書かれたと考えられる。<br />
<br />
「馬入川 馬入村にあり。むかしは相模川といふ。水源は甲州猿橋より流る。此邊の大河なり。〔東鑑〕に文治四年正月、三浦介義澄浮橋を相模川に構へし事見えたり。又俗伝に、建久九年十二月、稲毛三郎重成亡妻の追善のために、相模川に橋供養を営む。此重成が妻は、北条時政が娘にて、頼朝卿の御室政子の妹なり。これによつて右大将結縁の為に行き向かひ、帰路にして八的原といふ所に於いて、義経・行家が怨霊を見給ふ。又稲村崎にて、安徳天皇の御霊現形す。これらを見て、忽ちに身心昏倒して落馬し給ふ。供奉の人々その前後を囲み、助け参らせて御帰館ある。遂に御病悩をおもらせ、医療術を尽くすといへども寸効なし。其年も既に暮れて、明くる正治元年正月十三日、終に逝去し給ふ。御歳五十三とぞ聞こえし。御台所政子、此悲嘆に耐へがたく、髪をおろして尼となり、菩提を弔い給ふ。一説には、此橋供養の砌、水上に悪霊出でて、黒雲舞下がり、雷電霹靂とす。其時頼朝卿の乗馬驚いて落馬し給ふ。馬は水中に飛び入りて忽死すとぞ。故に馬入川といふ俗説あり。いまだその実録を見ざれば、慥かにしるず事能はず。」<br />
<br />
<br />
この文章と浮世絵のものを比べると文章中にかなりの共通点が見える。まず、「水源は甲州猿橋より流る。此邊の大河なり。」はほぼそのままである。次に「建久九年十二月、稲毛三郎」「相模川に橋供養を営む。」の部分もほぼそのまま。更にそのままの部分が「右大将結縁の為に行き向かひ」に続く。そして「水上に悪霊出でて、黒雲舞下がり、雷電霹靂とす。其時頼朝卿の乗馬驚いて」「馬は水中に飛び入りて忽死すとぞ。故に馬入川といふ俗説あり。」の最後もこの文章に元が見られる。<br />
しかしこの文章と浮世絵のものとで大きく異なっているのは、こちらでは馬入川の歴史的記述(頼朝の死)について重点が置かれ、俗説については確実ではないと距離を置いているのに対して、浮世絵のものは伝説的記述に重点が置かれている点である。また浮世絵の文章には何故か頼朝が落馬したという記述が見られない。<br />
以上から浮世絵の文章はかなりの部分「東海道名所図会」の伝説的記述部分を、かなりの部分そのまま写していると言える。<br />
<br />
''他の作品との比較''<br />
<br />
この浮世絵と同様に東海道五十三次それぞれの宿場を題材とした名所絵、および役者絵は数多く存在する。<br />
それらとこの浮世絵を比較した結果、以下のことが分かった。<br />
まずそれらの役者絵、名所絵にこの浮世絵の題材である稲毛三郎は登場しない。また平塚宿として描かれている題材が一貫していないのである。<br />
多いのは同じ相模を舞台とした”[[小栗判官]]もの”を扱う作品である。<br />
「東海道五十三次之内」の平塚で描かれているのは「世界花小栗外伝」の万町娘お駒である。<br />
また「東海道五十三次」では小栗判官、およびその妻照手姫が描かれている。<br />
これらは平塚宿なくむしろ隣の藤沢宿で顕著である。尚「東海道五十三対」でも藤沢宿では小栗判官と照手姫が描かれている。<br />
平塚宿は他に「馬入川の入り」や「山帰り」、「東海道五十三次内」では動物などが描かれていることから、特に名物が存在しなかったと伺える。<br />
これらを踏まえると、この浮世絵の題材である馬入川の渡し、及び稲毛三郎は絵の題材としては有名でなく、むしろ小栗判官物の方が有名であったことが伺える<br />
<br />
<br />
'''考察'''<br />
<br />
まずこの作品で注目するのは黒雲と雷、大風が吹いているように曲がった松、荒れている川面である。これらは全て天候の悪化を示しており、上の伝承にある、「安徳天皇(平家)・源義経」の怨霊のおどろおどろしさを表現していると考えられる。<br />
<br />
次に稲毛三郎の考察に移る。今まで背景で述べてきた通り、歌舞伎や浄瑠璃での稲毛三郎は史実の最期からか、坊主としての悪役としての印象が強い。しかしながらこの場合の稲毛三郎は黒雲と雷、荒れた水面に立ち向かっているように描かれている。しかも史実ではこの時には出家しているはずが現世の姿のままでもある。この点が従来の稲毛三郎像と異なっている。<br />
そもそも『吾妻鏡』の当初に描かれている稲毛三郎はいち早く源頼朝の元にはせ参じ、共に平家追討、奥州征伐に関ってきた忠臣である。従って彼もまた、平家や源義経らの恨みの対象であるはずである。しかし彼はその恨みに屈せず、後ろを守るようにして、水の方を睨んでいる。彼の視線の先には伝承の通り、平家、或いは源義経らの怨霊がいると考えられる。<br />
<br />
次に後ろで転んでいる人物に移る。これは伝承から考えるに、稲毛三郎の主君源頼朝かとも思われたが、脚絆をつけているのみで正面の稲毛三郎よりも劣った身なりである。従ってこれは稲毛三郎の部下などであると考えられる。<br />
そして彼の背後で襲い掛かるように持ち上がっている波は頼朝の愛馬が入水したために持ち上がったのだとも、悪霊のために波が荒れているのだともいえる。<br />
後ろの大波はこの転んだ人物に襲い掛かるように持ち上がっている。<br />
<br />
以上の点からこの絵は、平塚という単語をキーワードに“源頼朝の最期”の伝承と、この地を本拠地としていた稲毛三郎という御家人を合わせ、伝承どおり天候の悪化から怨霊の恨みの凄まじさを表現しつつ、屈せずに主君を守ろうとする稲毛三郎の姿を描いている。そしてその姿が従来入道姿の情けない悪人である稲毛三郎とは異なる、還俗姿での忠臣という新しい解釈を生み出している点で興味深いと考えられるのである。<br />
<br />
補足として以下のようにも解釈できる。<br />
隣の宿である藤沢と並べると、稲毛三郎と小栗小次郎の二人がまるでにらみ合っているように思われる。<br />
「藤沢」を考察すると、[[小栗判官]]で述べている通り、これは小栗判官の伝承より、土車と遺体が着ているような小栗小次郎の寝巻き、その横の女性の梅、竹などの着物の柄や髪の解れからこれは熊野で小栗小次郎が蘇った情景を描いていると考えられる。<br />
この場面の要素を抽出すると、小栗小次郎には<超自然的存在>というイメージが生まれる。これは馬入川の平家や源義経の怨霊のイメージとも重なっている。それを稲毛三郎がにらみつけているように、この二枚の絵を横に並べてみることで見えるのである。<br />
従ってこの二人がにらみ合っているように解釈できるのは非常に興味深いと考えられる。<br />
<br />
<br />
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'''参考'''<br />
<br />
''参考文献''<br />
『全訳 吾妻鏡』2巻 貴志正造訳 岩波書店 1976年<br />
<br />
『歌舞伎台帳集成』第30巻 歌舞伎台帳研究会 勉誠社 1993年<br />
<br />
『義太夫狂言時代物集』 日本戯曲全集28巻 渥美清太郎 春陽社 1928年<br />
<br />
『曽我狂言合併集』 日本戯曲全集14巻 渥美清太郎 春陽社 1929年<br />
<br />
『顔見世狂言集』 日本戯曲全集13巻 渥美清太郎 春陽社 1929年<br />
<br />
『浮世絵事典』 吉田暎二 画文堂 1990年<br />
<br />
『歌舞伎事典』 服部幸雄他 平凡社 2000年 <br />
<br />
『東海道名所図絵』秋里籬島 人物往来社1967年<br />
<br />
『保元物語 平治物語 承久記』 新日本古典文学大系43巻 益田宗ら校注 岩波書店 1992年<br />
<br />
『東海道名所記・東海道分間絵図』 叢書江戸文庫50巻 冨士昭雄校訂代表 国書刊行会 2002年<br />
<br />
『街道物語 東海道 江戸―箱根』 街道物語1巻木村幸治 三昧堂 1989年 <br />
<br />
『歌舞伎年表』 第6巻 井原敏郎 岩波書店 1961年<br />
<br />
『鎌倉室町人名事典』安田元久 新人物往来社 1990年<br />
<br />
『菅専助全集』第3巻 土田衛ほか編 勉誠社 1993年<br />
<br />
『歌舞伎登場人物事典』古井戸秀夫編 白水社 2006年<br />
<br />
<br />
''参考HP''<br />
<br />
『日本国語大辞典』online 閲覧2008年10月16日<br />
<br />
『日本歴史地名体系』online 閲覧2008年10月16日<br />
<br />
『歌舞伎・浄瑠璃年表』online 閲覧 2008年10月23日<br />
<br />
『歌舞伎・浄瑠璃役名索引』online 閲覧2008年10月17日<br />
<br />
----<br />
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<br />
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