雲門禅師

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うんもんぜんじ


画題

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解説

画題辞典

雲門禅師、名は文偃という。雲門宗の租なり、支那蘇州嘉興の人、初め空王寺の志証に就きて弟子となり律部を學びしが、後陸州に参す、陸州戸を閉ぢて入らしめず、強いて入らんとして過って足を損し、同時に悟入する所あり。陸州その器なるを知り、雪峯義存に参ぜしむ、文偃之に赴かんとする途上に於て、一僧の登山するを見て汝山に登らば義存上堂の際、其腕を握つて起てと教ふ、僧諾してその如くす、義存責めて文偃に托せられしを知り、文偃を招きく之を問う、文偃その時只手を以て目を拭い走り出でしかば義存大に器なりとし、留めて左右に侍せしむ。之によりて文偃遂に玄旨を究明し、跡を昧まして霊樹寺の知聖の道場に入り上首となり、智聖寂後その後を嗣ぎ、又韻州の雲門山に入り、学徒を集め、法化盛に行わる、其宗風孤危聳崚人の湊泊し難く、上々根にあらざれば、彷彿を窺うを得すとなり。後漢隠帝乾祐二年四月十日寂す。

雲門禅師像(京都天龍寺所蔵X国宝)

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

雲門禅師は、支那五代禅宗の一派たる雲門宗の祖文偃といふ俗姓は張氏、世々蘇州嘉興に住む、幼より出塵の志を懐き、空王寺の志澄に投じて出家し其弟子となる、資性聡敏にして、諸典を誦するに再閲することなく為に澄の器重する所となる、かくて澄に侍ること数年、四分律宗を究め、後に去つて睦州道蹤に諮参し、数年にして深く大旨を発明した、尋で雪峰義存の門に入り、遂には其宗印を受けた、是より諸方に参謁し益々玄要を究め、名声次第に揚る、後、韶州霊樹寺知聖の法席に参じて忽ち首座に陞る、知聖の将に示寂せんとするや書を広主劉王に遣し文偃をして接踵住持せしめんことを請ふ、王乃ち文偃をして霊樹寺を主らしめ、爾来欽美最も敦く累りに徴召して法門を問ふ、文偃、酬答影の形に応するが如くである、王益々揖服して遂に紫袍並に匡真禅師の号を賜ふ、後、遷つて韶州雲門山に住す、道風愈々顕はれ海衆雲集し法化四海に洽く乾和七年四月十日表を具して王に辞し学徒の遺誡を述べて示寂した、諡して大慈雲匡真弘明禅師といふ、文偃の一流を雲門宗と呼ぶ。  (仏教大辞彙)

伝馬遠筆  『雲門雲峰法語』   京都天竜寺蔵

伝顔輝筆  『雲庵賛禅師図』  井上侯爵家蔵

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)