「鎌倉右大臣」の版間の差分

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(相違点なし)

2021年12月7日 (火) 19:12時点における最新版

かまくらうだいじん


画題

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解説

東洋画題綜覧

鎌倉幕府第三代の将軍で歌人たる源実朝をいふ、実朝は頼朝の第二子、幼名を千幡といひ、母は兄頼家と同じく政子である、建仁三年、北条時政、政子と謀つて頼家を伊豆に幽し、千幡を立て従五位下征夷大将軍に任じ、名を実朝と賜つた、時に年僅に十二、元久二年時政の室牧の方、実朝を弑して女婿の平賀朝雅を立てやうと謀り、謀洩れて時政は義時の為め北条に幽せられ、義時は更に部将を京に遣して朝雅を殺し政権を専らにした、実朝は源氏の正統の漸次北条氏の為めに亡びつゝゆくを知り、内心深く北条氏に含むところあつたが如何ともすることが出来なかつた、建保六年二月正二位権大納言にして左近衛大将を兼ね十月内大臣となる、実朝はじめ近衛大将たらんとして使を朝廷に遣すや、大江広元切に之を諌止したが実朝は聞かず、広元は言なくして退いた、蓋し、後鳥羽上皇の関東の権勢重きに過ぐるを憤らせ給ひ、やがて自滅の日の来らんことを推し給うたので奏請さるゝままに官位を上らしめたのであつた、十二月右大臣となり、承久元年二月には大饗を設け、権大納言藤原忠信以下、縁あるもの悉く集る、上皇からは車服を賜はつた、既にして拝賀の礼を鶴ケ岡に行ひ、礼終つて帰途にかゝり八幡宮の石階にさし蒐るや頼家の子公暁の為めに殺さる、年廿八、翌日勝長寿院に葬つた、源氏の正統こゝに全く絶えたのである、実朝資性温雅、その大将軍たる空位を擁することの不平を唯文事によつて慰めてゐた、和歌を藤原定家に学び、出藍の誉あり、金槐集はその歌集であり、又蹴鞠にも秀でゝゐた、また嘗て宋の仏師陳和卿に命じ船を造らしめ、宋へ渡らんとしたのもその鬱勃の気を晴らさん為めであつたが、遂に果さなかつたと。  (大日本史)

実朝を画いたものに作がある。

松岡映丘筆  『右大臣実朝』  第十三回帝展出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)