過去現在因果経

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かこうげんざいいんがきょう


画題

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解説

画題辞典

)過去現在因果経は仏陀一代の伝記にして、釈尊の過去善慧仙人の普光仏の処に於て授記を得たるに始まり、涅槃に至る、謂ゆる八相を説きしものにして、因果経絵巻は即ち之を図解せるものなり。

第一巻は疾く散佚し、第二巻は京都上品蓮台寺、第三巻は醍醐三宝院、第四巻は東京美術学校に蔵せらる。我邦最古の美術にして天平時代の製作なり、其後鎌倉時代に成れるもの住吉慶忍の筆あり。内田嘉作氏ニ巻、益田孝氏根津嘉一郎氏各一巻を蔵す。(内田氏のものは大正震災に亡失す)

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

過去とは総じて現在以前に属する時間をいふものであるが、多くは三世の一として、人間境涯に生れ出でぬ前、即ち前世を呼ぶに用ゐる、而して今世の受報に差別あるは過去世の業因に差別のあつた為めであるから、因果の応報をば過去の因果と名づける、過去因果経は、正しくは過去現在因果経といふ、因果応報の理を説いた経で四巻よりなり、宋、求那、跋陀羅の訳である。  (仏教辞林)

国宝に指定された過去現在因果経は、もと四巻あつたが、今は東京美術学校に其第四巻、京都愛宕郡野口村の上品蓮台寺に其第二巻同宇治郡醍醐の報恩院に其第三巻を存し其第一巻は夙に断裂して江湖に離散したといふ、報恩院の第三巻の末尾には四月七日写書生従八位の文字あり、其月日の上にもと年次があつたと見え、西三条実隆の記に「聖武天皇宸筆過去因果経有絵拝見殊勝者也、天平七年の勅筆也云々」とあるに拠れば、当時なほ天平七年の文字を見ることが出来たのではなかつたか、これらから推すれば実隆の聖武天皇の筆と称するも又古来別に弘法大師の筆と伝ふるも倶にいはれなく、唯天平時代の一写経の筆に外ならぬのを知り得やう、書体も正しく他の天平経と同じく豊肥で筆画の整つた点毫も疑ふべき処はない、経巻の体裁は実に異様で、本紙を上下ニ欄に分ち、下に経文を書し上に其の大意を絵で現はした、即ちこれ経巻を絵解した最も古いもので、後世の縁起絵巻の本源は実に此に胚胎する、而して絵は経文の上にあるので、其の位置豎に短く且狭い故、図中の人物樹木、楼閣みな其形小さく、従て匇々の筆唯経文内容の変化を現はすに止まり、作家極力苦心の痕を見ることは出来ぬが一種軽妙の筆致は、自ら其間に横溢し雅趣いふべからざるものがある、画の配置より見れば人物と補景との配合描法何となく親接せぬものがあつて、此の種の複雑な図様未だ発達しなかつたことを知る、独り此の点のみならず、人物の容儀服装其他種々の特徴ある描法から推して考ふれば、天平時代の絵といふよりは、寧ろ推古朝の俤を存すといへやう、思ふに経文の書体及其奥書からして天平時代の作品たるは疑ないが、其図様は別に原本の存するものがあつて、これを模倣したのではなからうか、此種の図様は単純な仏画と異つて事実を連続的に現はすものであるから、これを一巻に組立てるのは容易の事ではなかつたらう、而して其絵の古調を帯びて然も製作時代の明証あると其経文と相俟つて一部の連続した絵巻物を成してゐることは我絵画史上唯一の好材料と称すことが出来る、此の因果経に次で有名な他の因果経がある、其体裁全く前者と同じく奥に「建長六年甲寅二月十七日書写了執筆良快釽是忠入道為経生極楽同是吉奉結縁書也画師住吉住人介法橋塵忍並子息聖衆丸」とある、是も四巻であつたが、亦零本で伝はつてゐる、奥書の画家の名に就いては或は慶忍と云ひ、塵忍とも称するが、いはゆる慶忍と解すべきものではないやうである、筆法極めて遒勁にして自在、よく鎌倉絵画の特色を発揮して遺憾ない。(中川)  (日本百科大辞典)

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)