西行

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さいぎょう


画題

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解説

画題辞典

西行、法名円位、大宝房又大本房と号す、西行法師の名最も著わる。俗名は佐藤義清、藤原秀郷九世の孫にして勇敢射を克くし、又韜略に通ず、傍ら和歌に巧なり、鳥羽上皇に仕えて北面武士となり、左術門尉に任じ親遇甚だ厚し、而も栄利を喜ばず、世の無常を感じて遁世の心已み難く、保延六年十月年二十三歳を以て、遂に妻子を棄て嵯峨に於て僧となる。是より抖擻に身を委して東国西海到らざる所なく、意のまゝに嘯詠自適す。西行曽つて天龍川を渡らんとして舟に上る、舟人乗る所多しとして西行に下らんことを逼り、遂に打って血を面に被らしむるに至る、西行従容舟を下りて怒る所なしという。又文治二年東大寺大仏殿建立の資を得んとして奥州下向の途次、鎌倉を過る、源頼朝之を召見し、弓馬及和歌に就て談を乞う。西行辞して曰く弓馬の道箕業を継ぎしも今伝書悉く焚く、和歌は唯興に応じて成すのみ、微旨奥義を解するなしと、然れども強いて請わるによりて通宵弓馬を談じ、翌朝辞して去る。頼朝之に遺るに銀猫を以てす、西行会々門前児童の戯るゝを見、之を与えて去るという。建久元年二月十六日河内弘川寺に寂す、年七十三、和歌多かるが中に鴫立沢の歌最も人口に膾炙す。尚、鴫立沢の条参照すベし。西行物語を画くもの左の数点あり。

土佐経隆筆西行物語絵巻(尾張徳川候爵及蜂須賀候爵所蔵)、海田相保筆西行物語絵巻五巻(津軽伯爵所蔵)、俵屋宗達筆西行物語絵巻(毛利公爵所蔵)

又銀猫の逸事を図せるもの、近く菊池容斎、橋本雅邦筆の筆あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

西行は鎌倉時代の歌人で、俗名は佐藤憲清、藤原秀郷九世の孫といふ、弓術を善くし、兵法に通じ、鳥羽上皇に仕へて北面の武士となり、左兵衛尉に任じ、和歌に堪能なので其の殊寵を受けた、然し栄利を悦ばず常に遁世の志あり、遂に保延六年嵯峨に住つて僧となり、法名を円位といひ後、西行と改めた、一笠一杖、常に諸国を歴遊し、山水の間に逍遥して風月に嘯き、歌を詠じては自ら楽しんだ、逸聞多く世に伝へられてゐる、世に伝ふ西行常に釈迦入滅の日に終らんことを希ひ詠じていふ。

願はくは花の下にて我死なんそのきさらぎの望月のころ

と、幽契違はず、建久元年二月十六日洛東双林寺の草庵に寂す、年七十三、その風藻を追慕して、雅会を開くもの所謂西行忌である、家集に『山家集』があり、その見聞を録したものに『撰集抄』がある。

西行の生涯を画いた絵巻は数種類あつて世に伝はる。

伝土佐経隆筆  (詞書二条為家)  蜂須賀侯爵家蔵

同                 尾州徳川家蔵

住吉具慶摹本   四巻       帝室博物館蔵

飛鳥井雅親の女一位局書画     津軽伯爵家蔵

俵屋宗達筆   (詞書烏丸光広)  毛利公爵家蔵

此の外になほ異本二三ありといふ、蜂須賀家及尾州徳川家の蔵『西行物語絵詞』は土佐風の特色を最もよく発揮したものとて有名である。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)