蟻通

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ありとおし


画題

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解説

(分類:物語)

画題辞典

蟻通は和泉国にある神祠なり。紀貫之玉津島参詣の途すがら、この社前を過りしに、俄に乗馬往かず将に斃れんとす時に祠掌来りて告げて曰く、是れ神の祟なりと、貫之捧ぐべきに幣帛もなかりしことゝて、取り敢えず手を洗ひて神前に額つき、「かき曇りあやめも知らぬ大空に 蟻通しとは思ふべしやと」一首を上りしに、忽ちにして馬前むに至りしという、

緒方光琳、田中訥言に図あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

和泉国泉南部長滝村にある神社、蟻通明神といふ、此の明神のこと『大鏡』や『古事談』にも見える、支那の天子から日本の天子に曲玉の中へ糸を通せといふ難題をかけられた時、玉の口に蜜を塗り、蟻を誘つて糸を通したといふ伝説は、『枕草子』に出づ、

唐土の帝、この国の帝といかで謀りてこの国うち取らむとて、常にこころみ、争事をして、おくり給ひけるに、つや/\とまろに美しげに削りたる木の二尺ばかりあるを、これが本末いづらぞと問ひ奉りたるに、すべて知るべきやうなければ帝思しめし煩ひたるに、いとほしくて親の許に行きて、かう/\の事なんあるといへば、唯はやからん川に立ちながら、横ざまに投げ入れ見んに、かへりて流れん方を末と記してつかはせと教ふ、参りて我しり顔にして試み侍らんとて、人々具して投げ入れたるに、さきにして行くかたに印をつけ遣したれば、実にさなりけり(中略)ほど久しうして七曲にわだかまりたる玉の中通りて、左右に口ありたるがちいさきを奉りて、これに緒通してたまはらん、この国に皆し侍ることなりとて奉りたるに、いみじからん物の上手不用ならん、そこらの上達部より始めて、ありとある人知らずといふに、又いきてかくなんといへば、大きなる蟻二つを捕へて腰に細き糸をつけ、又それに今少しふときをつけてあなの口に蜜を塗りて見よといひければ、さ申して蟻を入れたりけるに、蜜の香を嗅ぎて実にいと疾う穴の口に出にけり、さてその糸の貫かれたるを、遺したりける後になん、猶日本はかしこかりけりとて後々はさる事もせざりけり、この中将をいみじき人に思しめして何事をし、いかなる位をか賜はるべきと仰せられければ、更に官位をも賜はらじ、唯老いたる父母の、隠れうせて侍るを尋ねて都にすますることを許させ給へと申しければ、いみじうやすき事とて許されにければ、よろづの人の親これを聞きてよろこぶ事いみじかりけり、中将は大臣にまでなさせ給ひてなんありける、さて人の神になりたるにやあらん、この明神の許へ詣でたりける人に、夜現はれての給ひける。

七曲〈わた〉にまがれる玉の緒をぬきてありとほしとも知らずやあるらん

との給ひけるを、人の語りし。  (枕草子)

一つは、紀貫之の歌の徳により、蟻通明神の祟を鎮め奉つたといふ『貫之集』から取つた挿話で、謡曲にもこれを作つてゐる、『貫之集』の載する所を引く。

紀の国に下りてかへりのぼる道にて、俄に馬の死ぬべくわづらふ所にて、道ゆく人立とまりていふやう、是はここにいますがる神のし給ふならむ、年頃社もなくしるしも見えねど、いとかしこくてましましける神なり、さきさきかやうにわづらふ人々あるところなり、祈り申し給へよといふに、みてぐらもなければ、何わざすべくもあらず、ただ手を洗ひひざまづきふしおがむに神おはしげもなしや、そもそも何の神とかいふといへば、ありどほしの神となむ申すといふを聞き詠て奉りける馬の心地やみにけり。

かきくもりあやめも知らぬ大空にありどほしをば思ふべしやは

蟻通は能画として、又大和絵として画かれたものが多い。

無款蟻通屏風(重要美術品)  松田福一郎氏蔵

英一蝶筆  (重要美術品)  阿部正直氏蔵

酒井抱一筆          蓬莱庵旧蔵

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)