菅公

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かんこう


画題

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解説

画題辞典

菅公は菅原道真の謂なり、世に菅丞相といい、薨後神に祀られ、天満天神という。父は菅原是善、幼字は阿呼、幼にして頴悟、貞観年中文章得業生となり、天慶の初めには式部少輔を以て文章博士を兼ね、寛平三年蔵人頭に累進す、蓋し当時藤原氏の権勢漸く盛んなるものありしを以て、宇多天皇之を抑へんとするの御志あり、深く道真を信任し之を重用し、以て之に当らしめんとし、累りにその官位を進め玉へるなり。五年参議に任じ、尋で女衍子を納れて女御とす。明年遣唐使を命ぜらる、唐国擾乱に会し渡唐の事なくして止みしと雖も、その賀筵に於て天皇の窃に賀章及沙金を贈りて餞とするあり、重ぜられしこと尋常を越えたるを見るべし。尋ぃで累進して右大臣となり氏長者を兼ね、寛平九年宇多天皇位を醍醐天皇に譲るや、特に藤原時平と道真に詔し、補佐の任に当らしむ、道真即ち正三位に叙し右大臣となり、時平左大臣たり、已にして宇多上皇天皇と謀り、万機を道真に専決せしめんとす。時平之を聞きて悦ばず、藤原菅根等と謀り道真廃立の隠謀ありと讒す、遂に延喜二年正月を以て太宰権帥に貶せらる。道真和歌を奉りて宇多法皇に哀訴す、法皇驚き入りて之を救わんとせしも得ず、道真遂に筑前に下る。道真平常最も梅を愛し、多く之を植ゆ、発する時適々花開く、道真見て懐を叙して曰く、「東風吹かは香ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」。男女二十三人あり、亦皆処を異にして黜貶せらる。道真太宰府に至りて後、門を閉じて出でず。文墨に託して自ら遣る、三年二月、年五十九を以て配処に薨ず。道真博学にして経史に通じ、文を能くし和歌に巧に又詩に長じ筆道に達す、其薨じてより後、京都災厄頻りに至るものあり、世以て道真の祟となす。天皇深く悔悟して正二位を贈り、一条天皇更に正一位を贈り又太政大臣を贈る。天暦年中民間祠を北野に建てゝ天満天神という、爾後時を経るに従って上下の崇拝益々厚く、世に聖廟と称し文道の祖神とす。世を降るに従い所在亦此を祀り天神といいは皆以て菅公の事となすに至る。画かる所亦甚だ多し、梅花を愛せるに因みて梅花を配すること多し。

古く周耕の作あり、田中伯爵所蔵に雪舟の筆あり、又東京帝室博物館に秋月の作あり、堀子爵家には狩野元信筆あり、「渡唐天神」「綱敷天神」「恩賜御衣」「北野天神」等の条参照すべし。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

菅公は菅原道真のことである、幼名を阿呼といひ世に菅丞相と称し、薨後神に祀られて天満天神といふ、菅原是善の子、幼にして穎語、貞観中文章得業生となり、尋で対策に及第して玄蕃助となり、小内記に任じ十六年兵部少輔に陞り、元慶の初め式部少輔に転じ文章博士を兼ね仁和中讃岐守となつた、寛平三年蔵人頭に任ぜられたが、此時宇多天皇藤原氏の権を殺がんとする御心あり、密に道真の用ふるに足るを信じ其官位を進め給ひ四年従四位下に陞り左京大夫を兼ねた、此時天皇敦仁親王を立て太子とし給ふたが、道真の外この議に与るものは無かつた、五年参議に任じ式部大輔、左大弁、勘解由長官を兼ね、又俄に春宮亮を兼ね女衍子を容れて女御とし翌年遺唐使を命ぜられた、時に在唐の僧中瑾書を寄せて唐国擾乱を報じて来たので道真奏して遺唐使の廃止を請ひ、朝議之を容れ、ここに遣唐使は全く廃せられた、道真時に歳五十、門人宴を設けて之を賀す、会々一老父あつて賀章と沙金を置いて去る、衆之を怪んだが、これは天皇の命に依るものであつた、その信任の厚かつたこと斯の如くである、七年中納言を拝し従三位に叙せられ八年民部卿を兼ね九年大納言となり右大将を兼ね氏の長者となつた、翌年天皇御位を皇太子に譲る、醍醐天皇之である、此時藤原時平大納言左大臣であつたが、道真の寵常に己を凌ぐを嫉み、藤原菅根亦道真に憾みがあつたので、時平これと謀つて道真異図あり、陛下を廃して斉世親王を立てんとする旨讒言した、天皇春秋に富ませられ御在位なほ浅いので惑はせ給ひ延喜元年正月俄かに太宰権帥に左遷せらる、道真憂悶やる方なく和歌を以て法皇に哀訴したので、法皇大に驚かせ給ひ急ぎ清涼殿に赴かせ給ひ之を救はんとせられたが菅根等門を閉ぢて入れ奉らず空しく還御あり、道真の男女廿三人悉く処を異にして流され僅かに少男少女のみ随行を許さる、既にして太宰府に着くや門を鎖して出でず、唯文墨に託して自ら慰めたが翌三年二月遂に配所に薨じた年五十九、菅公薨ずるや間もなく時平菅根等相踵で歿し加ふるに京都に屡々災があつたので世以て道真の祟とした、天皇深く悔悟し給ひ延長元年本官に追復し正二位を贈り正暦四年には左大臣正一位を贈らせ給ふ、民間亦祠を北野に建て道真の霊を祀り称して天満天神といふ。道真文を能くし詩に長じ博く経史に亘り筆道に達し、其著に『三代実録』『菅家文集』『新撰万葉集』『類聚国史』等がある。  (大日本史)

菅公平常梅花を愛すること深く、其の画像には梅花を配するもの多く、又その生涯を描いたもの天満宮縁起として世に行はる。

伝信実筆  『北野天神縁起』八巻  北野神社蔵

弘安八年作  同上     二巻  同

松崎天神縁起        六巻  松崎天神蔵

光信筆   『天神縁起』  三巻  北野神社蔵

以上何れも国宝であり、なほ別に行長筆荏柄天神縁起三巻(前田侯爵家蔵)がある。

なほ菅公の画像として伝はるものに左の作がある。

雪舟筆            田中伯爵家蔵

狩野元信筆          藤田男爵家旧蔵

僧秋月筆           東京帝室博物館蔵

土佐光起筆          藤田男爵家旧蔵

土佐光起筆  天満宮一座像  池田侯爵家旧蔵

伝義政筆           小泉三申氏旧蔵

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)