良寛

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りやうくわん


画題

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解説

画題辞典

良寛は禅僧にして歌人なり、越後国出雲崎橘氏に生る、幼名文孝、歳十八にして剃髪して僧となり、備中玉島の円通寺国仙和街に師事す、已にして故国に歸りしも住處を定めず、樹下石上之を家として安んず、後国上山に上り万元和尚の旧址五合庵を修めて之を居とし、山中清蓼の境に自ら水を汲み薪を拾うて住し、和歌を作りて雅懐を遣る、居ること二十年、老に及びて麓に下り乙子祠畔に草庵を結ぶ、島崎村の某氏之を見て己が邸内に別室を作りて之に迎へ移らしむ、天保二年二月六日寂す、壽七十三、良寛性悟淡名利に念なし、和歌は亀田鵬齋をして喜撰以後の第一人と賞せしめ,書は一体を成して良寛流を後に伝ふ、その述懐の詩に曰く、生涯懶立身、騰々任天真、嚢中三升米、炉邊一束薪、誰知迷悟跡、何問名利塵、夜雨草庵裡、雙脚等閑伸。近頃図せらるゝ所少しとぜす。第八回の院展に安田勒彦が画ける五合庵の春ほ良寛が閑居を写せるものなり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

禅僧また歌人、越後出雲崎の人、父を左門といひ諱は泰雄、また一に伊織と称した、晩年剃髪して以南と号す、良寛は其の長子である、年甫めて十八、尼光照寺玄乗の徒弟となり、薙髪して良寛と称し大愚と号した、後郷を出で備中玉島円通寺国仙に従ひ、修行し海内を歴遊すること二十余年還つて国上山五合庵に住し晩年には山上乙子祠の傍に移つた、夏と冬は庵を出でず春秋は村々を托鉢した、七十歳に至り島崎村の人木村某良寛の為め別舎を造りこれに請じたが天保二年正月六日七十四を以て病歿し村の隆泉寺に葬つた。常に参禅余暇文墨に親しむ、嘗て人に語つて曰く貧道好まぬ所のもの三つあり、詩人の詩、書家の書、庖人の饌と、平素奇行多く児童を愛し到る処児女を集めて遊戯した、人其の故を問へば真にして偽りのないのを愛するのみと、或時脱獄の囚と誤まられ土埋めにされる処を良寛を知る人の為め助けられた逸事もあり、床下の筍の板の為めに伸びられぬを愍みこれを剥いで伸ばしめ、或は子女と共にを弄び興到れば吟詠す、亀田鵬斎北遊して良寛の書を見、喜撰以後の一人と激賞した、詩歌集一巻あり、一詩に曰く

乞食到朝市、路逢旧師翁、問我師胡為、往彼白雲峰、我問師胡為、老紅薼中、欲答両不道、夢破五更鐘。  (良寛上人伝)

良寛和尚を画いた作

安田靫彦筆  『五合庵の春』    第七回院展出品

同      『良寛和尚像』    著者蔵

太田聴雨筆  『良寛嬉戯』     青丘会展出品

堀飛火野筆  『里へ来た良寛坊』  第九回帝展出品      

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)